No.1367 『ブラタモリクイズ!北海道・稚内~“最北の町”で暮らすとは?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は9月16日に放送された北海道・稚内編です。

 北海道の稚内市。町の名物と言えばホタテ、ホッケ、タコといった海の幸。そして、一面に広がる自然豊かな風景です。稚内には最果ての地を見ようと、国内外から多くの人々が訪れています。どこまでも広がる雄大な景色を誇る丘陵に立ち並ぶ風車の正体とは?幕末に強風吹き荒れる町にやってきた松前藩が担った重大な役割とは?稚内の港に立つ巨大な防波堤が守ったものとは?稚内を港づくりに好条件な町とした地質的な特徴とは?「最北の町」で人々がどのような暮らしを営んできたのか、探って行きましょう!

稚内市の位置 

 北海道の稚内市。北の海に飛び出た宗谷岬には「日本最北端の地」の石碑があります。

日本最北端の石碑 画像引用元:ウィキペディア

 サハリンまでは約43㎞と近く、晴れた日には宗谷岬からサハリンの地が見えます。

Q1.実際の日本最北端は稚内市ではなく、ある「島」なのですが、その島の名前は何でしょうか?
A1.択捉島(えとろふとう)

択捉島の位置 

 日本の最北端は、千島列島の南西部に位置する択捉島です。そのため、稚内市は厳密には「通常交通機関で行ける離島を除いた最北の町」となります。

 まずは稚内がどのようなところか、地図で確認してみましょう。

稚内の地形 

 稚内は2つの岬が海に飛び出たかたちの、まるでキツネの頭のような形状をしています。
 そこでここからは、稚内のかたちをキツネの頭になぞらえて、地図の向かって右側を「右側の耳」、左側を「左側の耳」と呼ぶことにします。

 日本の中でも稚内の暮らしを取り巻く環境は独特です。
 まずは稚内がどのような環境にあるのか、「右側の耳」の宗谷岬から車で10分の場所に向かいます。

 どこまでも続く雄大な自然風景が見られる、「宗谷丘陵」という場所は、稚内で人気の観光スポットです。
 丘陵にはたくさんの風車が見られます。 

宗谷丘陵の風車

Q2.宗谷丘陵の風車は何のために使われているのでしょうか?
A2.風力発電

 宗谷丘陵には風力発電の風車が、なんと50基以上もならんでいます。この場所は全国屈指の風力発電地帯で、稚内市民の電力すべてを賄える以上の発電量を生み出しています。

 その風はどれくらい強いのでしょうか。
 宗谷岬の年間平均風速は「7.6m/秒」で、旭川で3.0 m/秒、札幌で3.6 m/秒、東京は2.9 m/秒という数値を見ても、いかに高い値であるかがわかります。一年中風が強い稚内は、風力発電にはもってこいの環境です。
 宗谷岬の月ごとの平均風速は、11月が9.0 m/秒、12月が9.3 m/秒、1月が8.6 m/秒、2月が8.0 m/秒、3月が8.0 m/秒と、冬が特に強くなっています。これはシベリアからの強烈な西風の影響によるものです。
 風が強いので、辺りを見渡すと、高い木が見られないことに気づきます。寒さと風の厳しさで、木があまり育たないのです。谷の中は風が多少弱いので、木が生えていますが、尾根筋には木が生えていません。
 冬は平均気温が0度を下回る稚内は、風と寒さが激しいので、農作物の栽培はほとんど行われていません。

 そんな過酷な環境の最北の町に、江戸時代に幕府の命を受けてやってきた人々がいました。その人々が住んだ場所は「右側の耳」の西側、最も西風があたる場所でした。
 なぜその場所が選ばれたのでしょうか?

 宗谷丘陵から車で10分、江戸時代に拠点であった場所へと向かいます。
  
 江戸時代に海沿いの地を拠点としたのは松前藩(まつまえはん)の人々でした。さらに松前藩の後には、津軽藩、会津藩、秋田藩の人々が暮らしていた時期もあります。
 幕末のこの辺りを描いた絵図を見ると、町ができていて、町の中に番号が付けられた場所があります。
 「五」と書かれた場所は「台場」であったという表記が見られます。

Q3.幕末の絵図でこの地域に「台場」があったことから、松前藩に課せられた役割は何であったと考えられるでしょうか?
A3.北方の警備

 「台場」とは幕末に設置された「砲台」のことです。松前藩に課せられた役割は北方警備だったのです。南下政策をとるロシアに対して脅威を感じた幕府が、台場をつくって警備を行っていました。
 
 幕末には北方警備という役割もあったこの場所。しかし、そもそもこの場所を拠点に選んだ理由は他にありました。

 絵図の「一」と書かれた建物のあった場所へと向かいます。
 「一」であった建物の場所には碑があり、「運上屋(うんじょうや)跡」と記されています。

Q4.「運上屋」とは松前藩が、北海道の千島列島、樺太に居住していた先住民族の人々と交流していた拠点のことです。この人々の名称は何でしょうか?
A4.アイヌ

アイヌの長と松前藩の謁見(えっけん)行事を描いたアイヌ絵 画像引用元:ウィキペディア
※謁見とは身分の高い人、目上の人に会うことです。

 松前藩は運上屋でアイヌの海産物を買ったり、逆に酒や刃物をアイヌの人々に売ったりしていました。
 こうした交易会社の本店が松前にあり、松前藩は支店としての運上屋を各地に建てていたのです。

 そして、この地がサハリンに近いことが、珍しいものが手に入るという交易上の大きなメリットをもたらします。
 その珍しいものとは、清王朝の絹織物でした。松前藩は清王朝の絹織物を運上屋で手に入れていたのです。
 なぜアイヌの人々は遠い清王朝の物を持っていたのでしょうか?
 当時、大陸からサハリンを経由して稚内に至る交易のルートがありました。そこでこの地のアイヌの人々が清王朝の物を持って、交換に臨んでいたのです。
 当時の日本は基本的に鎖国国家で、外国の物を得る手段はかなり限られていました。そんな中、松前藩はこの地の運上屋を経由して、ガラス玉や猛きん類の羽など、外国の物を入手していました。
 稚内は江戸時代に外国の物が手に入る貴重な町だったのです。だからこそ風が強くても、サハリンにより近いこの場所が拠点に選ばれたのです。

 ここまでは稚内の「右側の耳」で江戸時代の暮らしを見てきましたが、実は今の暮らしの中心は「左側の耳」の方です。
 なぜ「左側の耳」が栄えたのかを探ってみましょう。

 「左側の耳」にある、日本最北の駅「稚内駅」。稚内駅は1928年に開業しました。
 運賃表を見ると、札幌から10000円以上もかかることが示されています。
 ホームからは野性のシカが見えます。

稚内駅のホーム 画像引用元:ウィキペディア

 稚内駅は終着駅でありながら、単線の駅です。
 実はかつての稚内駅は、今と全く違っていました。現在はホームの横の空き地となっているところに、線路があったのです。
 さらに島式のホーム以外に線路が5本もあり、駅員も数百人いたと言われています。
 昭和初期の稚内駅は、たくさんの倉庫が立ち並ぶ物流拠点の駅だったのです。
 この大規模な駅の存在が、左耳の発展を解き明かすカギとなります。
 
 昭和初期の頃の稚内駅の様子がわかる資料を見ると、駅から港に向ってカーブしてのびる線路があります。
 この線路がかつてあった場所へと向かってみます。

 カーブした線路の跡をたどって行くと、「稚内港北防波堤ドーム」という巨大な波よけが姿を現します。高さ13m、長さ427mのドームは、1936年に完成しました。

稚内港北防波堤ドーム 画像引用元:ウィキペディア

Q5.かつて線路に沿って立っていた防波堤ですが、これほど巨大な防波堤が必要だった理由とは何でしょうか?ヒントは船です。
A5.港につながる駅があったから。

 巨大な防波堤が建てられた理由は、駅がもうひとつあったことです。
 船から直接に乗り降りできる「稚内桟橋駅」(1938年開業)という駅がカーブする線路の先にありました。駅の横はすぐ港で、船に乗り換えることができました。鉄道と港に停泊するたくさんの船を守るために巨大な防波堤がつくられたのです。

Q6.稚内桟橋駅で船に乗り換えて向かう場所はどこだったでしょうか?
A6.樺太(サハリン)

 ここで船に乗り換えて向かう先は「樺太」でした。1905年に日本が勝利した日露戦争後に結ばれたポーツマス条約で、樺太の北緯50度以南が日本の領土になりました。

ポーツマス会議 画像引用元:ウィキペディア

 そこで樺太に行く定期航路があったのです。

現在の北防波堤に接岸している稚泊連絡船 画像引用元:ウィキペディア
※稚泊連絡船(ちはくれんらくせん:1923年から1945年まで稚内と樺太の大泊との間で運航されていた航路

 樺太と航路がつながったことで、例えば日本の製紙工場はこぞって樺太に進出しました。

 樺太との物資の輸送のために整備された鉄道と港。
 稚内の「左側の耳」は、大量輸送ができる物流拠点として発展していったのです。
 
 ちなみに樺太は観光でも大人気でした。島国の日本では見られない陸の「国境」が樺太で見られたことで、国境を見に樺太に行くという「国境観光」ができたと言われています。

 さらにこの場所には、大きな港をつくるためのいい条件がありました。
 その条件を解き明かすカギは海の中にあります!
 地形図を見ながら考えてみます。
 海岸沿いのもこもこしたものが地形図に表されていますが、その正体は「岩礁(がんしょう:水中に隠れている岩や水面にわずかに出ている岩)」です。

岩礁の例(千葉県鴨川市江見吉浦) 画像引用元:ウィキペディア

 陸を縁取るように、陸地からすぐの浅瀬に岩礁が広がっています。
 岩礁より先は深い海となっているため、稚内は岩礁を埋め立てるだけで大きな船も着岸できる港をつくることができたのです。

岩礁を埋め立てるだけで大きな船も着岸可能な港ができる!

 埋め立てに向いていた岩礁があったことで、稚内のこの場所に港をつくることができました。

 さらに左側の耳には岩礁以外にも港をつくるのに好都合な条件がありました。
 それがわかる山の中の神社へと向かいます。

 宮司さんがいる神社としては最北に位置する神社の辺りで稚内の地質を構成する岩石が見られます。
 その正体は、泥岩の中でも特徴のある「頁岩(けつがん)」、通称「ページ岩」です。

頁岩 画像引用元:ウィキペディア

 この「ページ岩」という名前が地質の特徴を表しています。
 ページ岩は本をめくるように薄くはがれやすい性質を持っているのです。

Q7.ページ岩がはがれやすい性質を持っていることが、なぜ港をつくるのに好条件となるのでしょうか?
A7.岩が埋め立てに向いているから。

 ページ岩は、はがれやすいので切り崩しが簡単で、切り崩した岩をすぐ近くの海に運んで埋め立てに使うのに合っていたのです。
 さらにページ岩は、風化しても程よい大きさを保つ性質も持っているので、埋め立て向きです。
 地質図を見ると、ページ岩が左側の耳に集中していることがわかります。
 一方、宗谷岬のある右側の耳では、砂岩や礫岩(れきがん)、泥岩が多く分布しているのですが、これらの岩は風化すると細かくなってしまうので、埋め立てに使うと海に流されてしまいます。

 埋め立てに強い、港をつくるのにもってこいのページ岩があったこと、そしてそんな地質を見極められたことが、左耳が発展した理由のひとつでした。

 暮らしは豊かになりましたが、稚内桟橋駅はわずか7年弱で廃駅となりました。その理由は「終戦」です。1945年、終戦によって樺太航路が途絶えて、稚内桟橋駅も廃駅になったのです。
 このことで稚内の暮らしは衰退するかと思われたのですが、漁業によって栄えました。当時、外に洗濯物を干せない日があるくらい、町全体に魚のにおいが充満したと言われています。

 樺太との物流拠点の役割を終えた稚内。現在の暮らしを支えているのは漁業です。
 そこで稚内で人気の市場へと向かいます。

 稚内は最北の町のメリットを活かして、今もたくましく暮らしています。
 ホタテ、ホッケ、タコは、市町村別の水揚げ量で、2018年に3つとも全国1位になりました。
 最北の町のメリットのひとつは、西の日本海、東のオホーツク海に漁場があることです。

日本海・オホーツク海の位置

 さらに稚内の特産品には、棒だら(たらを乾燥させたもの)、昆布、ほたての貝柱などの高級品があります。
 棒だらは高級食材として、京都で懐石料理にも使われています。

棒だら 画像引用元:ウィキペディア

Q8.棒だら、昆布、ほたての貝柱が稚内の特産物となった理由とは何でしょうか?ヒントはこれらが乾燥したものであることです。
A8.風が強くて乾きやすいから。

 稚内では風が強いので、海産物が乾きやすいというメリットがありました。
 海の幸を乾かす強い風は、もともとは稚内が悩まされていた環境です。風力発電も高級食材も、風が町の資源ととらえて生かされているのです。

 最北の町、稚内。
 強い風が吹き荒れるこの地で、人々は知恵を絞り、厳しい環境さえも味方にしながら、たくましく暮らしています。

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