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著者・いとうみく氏の作品と言えば、何といっても2021年度入試において、ラサール中、栄光学園中、浦和明の星中、淑徳与野中などで出題され、大きな話題となった『朔と新』が挙げられます。2022年度入試にも『あしたの幸福』が江戸川取手中などで出題され、いとうみく氏は、中学受験において大いに注目を集める重要作家となっています。
『朔と新』ではブラインドマラソンに挑戦する兄弟の姿が描かれ、『あしたの幸福』ではヤングケアラーとなった友人の姿が描かれるなど、その作品は、社会的なテーマも色濃く反映されている点が特徴的です。
本作品では、過去に暴力事件を起こしてしまった自分を許すことができず、心を閉ざし、他者との交流にも目を背けてきた主人公が、少しずつ心を解放させて再生して行く様子が、主人公が発する悲痛な叫びとも言える言葉を通して描かれています。
『挫折からの再生』という重要テーマが、読んでいて心がひりひりと痛むような心情表現を通して深く描き込まれた本作品は、『朔と新』と同じく、多くの学校で出題対象となる可能性が高いです。主人公が抱える負の感情が根深いという特徴がありますので、特に男子校・共学校の上位難関校での出題が濃厚と考えられます(メルマガ内では特に出題が予想される具体的な学校を予想していますので、ぜひこちらからご登録ください。メールアドレスの入力のみで30秒で完了します)。
暴力事件が物語のきっかけになってはいるものの、刺激的で凄惨な場面などは一切ありませんが、ご心配な場合は、親御様が先に読まれてからお子様に読んで頂いてもよいでしょう。
≪主な登場人物≫
鳴海円人(なるみえんと:十七歳の男子。アルバイト先のコンビニで大学生を殴ってケガを負わせてしまったことで試験観察(※1)の処分を受け、深見煙火店に預けられる。)
深見静一(ふかみせいいち:深見煙火店の経営者。過去に息子を事故で亡くしたことから、補導委託の受託者(※2)となるが、そのことがきっかけで妻と離婚し、娘とは疎遠になっている。)
深見まち子(ふかみまちこ:静一の母。煙火店の従業員の食事などの世話をしている。)
日置健(ひきたける:煙火店に住み込みで勤める24歳の男性。康と双子の兄弟。)
日置康(ひきやすし:健の双子の兄弟で同じく煙火店に勤めている。)
和花(わか:静一の娘。)
(※1)試験観察:家庭裁判所で、非行のあった少年に処分を決定する前に、一定期間自宅での生活を観察した後に、改めて処分を決めること。
(※2)補導委託:自宅での試験観察が難しい場合に、民間の人の家で生活したり仕事をしたりすること。補導委託先の責任者を受託者と言う。
≪あらすじ≫
鳴海円人はバイト先で起こした暴力事件により試験観察の処分を受け、補導委託先の深見煙火店に預けられることになります。事件を起こした自分を許すことができず、頑なに心を閉ざす円人ですが、煙火店の経営者である深見静一、その母親のまち子、煙火店に住み込みで務める双子の日置兄弟たちと共に過ご時間を経て、その心に少しずつ変化が生まれてきます。
この作品の中学受験的テーマは「挫折からの再生」です。この重要テーマがまさに真正面から描かれています。このテーマの作品では、主人公が過去の自分の失敗に向き合いながら葛藤する様子を踏まえて、そこから何をきっかけに心情を変化させて再生へと向かって行くのかを的確に読み取ることが求められます。この作品でも、主人公の円人がなぜ頑なに心を閉ざしているのかを理解したうえで、何をきっかけに新たに自分が進むべき道を見出して行くのかを読み取ることがポイントになります。円人が自分の心の内について説明する言葉が多く見られますので、その言葉に見られる変化を確実につかんで行きましょう。
深見や煙火店の同僚たちが円人の誕生日を祝う場面から、その翌朝に円人に花火師になることを勧める深見と円人が言葉をぶつけ合う様子を描いた場面につながる部分です。円人が自分を変えるきっかけをつかむ、物語全体でも重要な場面です。円人の心に重くのしかかる想いがどのようなものなのか、そして心を閉ざしていた円人が、何をきっかけに自分を変える一歩を踏み出すことを決めて行ったのかを正確に読み取りましょう。
P.141の15行目に「円人は表情を見られないように前髪に手を当てた。」とありますが、なぜ円人がこのような行動をとったのか。その理由として最もふさわしいものを次の中から記号で答えなさい。
ア.自分とは異なる境遇で育った健に、涙を流してしまったことを指摘されてしまった悔しさを深見に知られたくなかったため。
イ.常に自分を気遣ってくれる深見に涙を流したことが知られてしまうと、余計な心配をかけてしまい、申し訳ないと思ったため。
ウ.新しい環境に自分が愛着を感じ始めていることに気づいている深見に、これ以上自分の変化を知られたくなかったため。
エ.自分が花火に感動した事実を認めたくなく、自分のことを気にかける深見にそれを知られるのも避けたいと思ったため。
円人の葛藤を読み解くうえで、重要な心理描写が、出題が予想される箇所とした部分の序盤に出てきます。
自分の誕生日を祝ってくれる会社の同僚や、深見の母親であるまち子の姿を見て、円人は以下のような心情を抱きます。
自分がそこにいることがあたりまえに感じられるほどに、今いる環境に「心地よさ」を感じていながら、その気持ちを素直に受け止めることができずに、むしろ「怖さ」まで感じてしまっている円人の姿は、頑なに心を閉ざす人物が見せる姿を描写した典型パターンのひとつで、実際の入試問題でも出題対象となることが多くあります。
こうした素直に自分の気持ちのままにいられない、心を閉ざした人物の心情を読み解く際に注意すべきは、その人物の心を閉ざしている理由が何なのか、なぜ素直になれないでいるのか、その「理由」を正確につかむことです。そこで、円人が心を閉ざしている理由を探るために先へと読み進めて行きます。
ポイントとなるのが、「この人たちと自分は違う」という円人の言葉です。さらに読み進めた先に、同じような表現が出てきます。
最後の「おれには、なにもない。」という言葉に円人の悲痛な想いが込められています。また、最初の「薄く笑った。」という様子からは、自分に対する諦めの気持ちと冷ややかに客観視する姿勢がうかがえて、それだけ円人が自分を否定的に見ていることが読み取れます。
十八歳にして未来を閉ざしてしまう円人の心の底に深く根付いているものは何なのでしょうか。
その答えとなるのが、深見から花火師になることを勧められた直後の以下の部分です。
過去に暴力事件を起こしてしまった自分が未来へ向けて希望を持つことなど許されるはずがない。そうした想いを強く抱くからこそ、円人が頑なに心を閉ざし、自分に対しても冷ややかな見方をしてしまっていると読み取ることができます。
そんな円人にとっては、自分が今いる環境に心地よさを感じることも許されるものではなく、そんな気持ちになった自分に怖さまで感じてしまっているのです。
円人が心を閉ざす理由を確かめたうえで、問題について考察します。問題該当部は、自分のために花火を打ち揚げてくれた深見に言葉をかけようとした場面での、円人の姿が対象となっています。
華やかに打ち揚げられた花火を見て、無意識のうちに涙を流してしまうほど円人の心が揺り動かされたことは事実なのですが、同僚の健に「おれ、花火見て泣くやつ初めて見た」(P.143の2行目)と言われて、強く否定し、それが「雨」だったと、誰にもわかるような嘘をつくほどに円人は激しく動揺してしまいます。
これまで見てきたように、円人には自分にとって心地よい環境の中で自分を変えることなど許されるはずがないという強い気持ちがあるだけに、ここでの円人の行動は単なる強がりではなく、花火に感動したことを自分でも認めたくなく、他人にもそれを知られたくないという強い想いに起因していることがわかります。それが、「表情を見られないように前髪を手に当てた」という行動につながっていると考えられるのです。
そこで選択肢を見てみると、まずアについては、同僚の健に対して自分との「違い」は感じていますが、それがライバルとして意識しているとまでは本文で説明されていませんので不適切です。またイについて、深見に知られたくないことは確かですが、他者に対して心を閉ざしている円人が「申し訳ない」と感じることは当てはまりません。ウの「自分の変化を知られたくない」という部分は正しいですが、前半の円人が環境に愛着を感じていることを深見が気づいているかどうかについては、この時点では説明されていませんので選ぶことはできません。よって正解はエとなります。
選択肢問題では今回のウのように、一見正しそうでも「その時点では定かではない」ものは確実に消去するように気をつけましょう。
エ
円人の心情の「変化」を答える問題ですので、変化の前後の円人の心情、そして何がきっかけとなって心情の変化が起きたのかを詳しく説明する必要があります。
変化の前後の心情については、円人の心の揺れ動き、葛藤を正しく読み取ること、つまり円人が「2つの異なる状態」の間で迷っていることを理解できれば説明することができます。
異なる状態の一方は≪予想問題1≫で考察してきた通り、過去に暴力事件を起こした自分を許すことができず、新たな環境に馴染むことも認めたくないという、頑なに心を閉ざした円人の状態を指します。
もう一方は、深見から勧められた「花火師として生きて行くこと」を選びたいと心の底で強く思っている状態です。その円人の切なる願いとも言える心情は、深見から誘われた際に見せた以下のような反応に、兆しとして見ることができます。
「小さく跳ねた」という表現からも、円人の心が高ぶっていることが読み取れます。
そしてその後に、円人の花火に対する真の想いが以下のように吐露されます。
ここでの「まぶしかった」という言葉を見逃さないようにしましょう。円人はこれまでも「自分とは違う」という言葉を使っていましたが、ここでは違いにとどまらず、その違いを感じる相手の姿をまぶしく見ている、つまり憧れに近い感情を抱いていることがわかります。
どんなに心を固く閉ざしていても、自分のために打ち揚げられた花火の美しさ、そしてその花火の作り手である人たちの姿に魅入られている自分を、否定できなくなっているのです。
それでも円人の心はまだ解放されることはありません。そのことを示す以下の部分が、まさに円人の葛藤を如実に表しています。
この3行で表された姿に円人の心の揺れ動きが集約され、そしてこの部分から、円人の変化が見え始めてきます。
迷いを感じながらも頑ななままでいる円人に対して、深見は切々と円人が花火師に向いている理由を告げます。
その中に以下のようなやりとりが見られます。
この「……」という円人の言葉にならない反応から、この時点ですでに円人の心情は、花火師になりたいという方向に傾いていると読み取れます。
それまで涙を流したことを強く否定していた円人が、深見の問いかけに対して言葉を返せず、花火に感動したことを認めざる得なくなっているのです。言葉にはなっていませんが、円人の心情の変化がはっきりと表された部分です。
そしてそこから次第に、円人は、これまで使わなかった言葉を心の中で発するようになります。
「夢」という言葉は円人が否定してきたものです。暴力事件を起こしたような自分が夢を抱くことなど許されない、そんな強い気持ちが円人の心を長く支配していました。
花火に心を揺り動かされ、その花火をつくる人たちの姿に憧れを抱いていたことを認める過程で、円人が使う言葉にも変化が見え始めているのです。
それでも円人の自問自答は続きます。直後に以下の表現があります。
夢を持ってもよいのかという自分への問いに対して、まだイエスと言えるほど許せる心境になっていない円人ですが、「だけど……」につながるのが以下の部分です。
罪を犯した自分が夢を持って生きて行くことは許されないが、生きて行くためであれば「やむを得ないこと」として許されるかもしれない。そんな風に無理に理由をつけてでも、花火師という世界に身を置きたいという、円人の切実な想いが伝わってきます。
問題該当部はこの直後になります。
注意して頂きたいのが「口実」という言葉です。「言い逃れるための言葉や材料」という意味で、ここでは円人が使った「言い訳」と同じ意味ととらえて構わないでしょう。
罪を犯した自分が花火師の世界に踏み込むなど、許されるものではない。それでも、花火を見て、深見から強く花火師になることを勧められたことで、「生活のため」という明らかに言い訳と受け止められる理由を使ってでも、夢を持って生きて行きたいと思うようになった、といった内容になります。あとは字数に合わせて調整をします。
問題で「詳しく説明」とされていますので、「口実・言い訳」の部分にもしっかり言及するように注意しましょう。
暴力事件を起こした自分が花火師になりたいという夢を持つことは許されないと思っていたが、花火を間近で見て、深見の言葉を聞いたことで、花火師として生きたいという自分の気持ちが否定できなくなり、言い訳とも思える理由をつけてでも花火師になることを自分に納得させたいと考えるようになった。(138字)
今回取り上げました箇所以降、円人が花火師として生きて行くことを決めてからも、例えば急に明るく振舞うなど、円人の行動に劇的な変化は見られません。淡々と、それでも真摯に花火づくりに打ち込む円人の姿が描写されて行きます。急激な変化を見せるほど、円人の心の傷は浅いものではない、というリアリティが感じられる点もまた本作品の大きな魅力になっているのです。
そしてぜひ注目して頂きたいのが、物語上重要な役割を果たす二人の人物の存在です。一人は、深見静一の元妻の弟である富樫克己という人物。同じ煙火店で働く富樫の円人に対する攻撃的な態度は、小学生のお子様からすると、強く反感を抱く対象となるかもしれません。ただ、富樫もまた親族を失った一人であり、円人に攻撃的になる理由もまた理解できるものです。そんな富樫と円人の関係がどのように変化して行くのか。物語の最後の最後にそれが示されたことで、読後感がより一層味わい深いものとなります。そしてもう一人が、円人の祖母である佐恵(さえ)です。円人が小学生の頃に親族とは思えない冷たい言葉を投げつけたこの佐恵もまた、まるで悪役のように描かれていますが、円人と佐恵との関係において、ある隠されいていた事実が物語の最終盤で明らかになった際に、読み手の心に温かな衝撃が訪れます。本作品では、こうした主人公を否定的に扱う人物の状況についても、深く書き込まれていますので、その側面にもしっかり目を向けるようにしましょう。それが物語文読解で人物の置かれた立場を深く理解する習慣づけにつながります。
円人の置かれた境遇は小学生のお子様にとっては決して馴染み深いものではないでしょう。それでも、自分とは全く異なる境遇にいる人物の心情を、文章を通して深く読み取らせるという傾向は、最近の中学受験物語文において年々強まっています。本作品はまさにその傾向に合致しており、「挫折からの再生」というテーマを学習するうえで格好の教材にもなります。6年生はもちろん、読書好きな5年生にもぜひ読んで頂きたい傑作です。
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