No.1378 『ブラタモリクイズ!北九州~合体メガタウン!北九州市誕生の秘密とは?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は10月7日に放送された北九州編(前編)です。

 福岡県・北九州市。絶品グルメの数々、そして日本新三大夜景の町としても大人気です。大パノラマの夜景を見ようと北九州市には多くの観光客が訪れます。堀のすぐまた横に堀、多数の堀をめぐらせた小倉城の狙いとは?小倉にある「九州の日本橋」の正体とは?黒田長政による大事業でできた人口の川がもたらした恵みとは?米に代わって川が運んだ貴重な資源とは?北九州市を生んだ「五市合併」の裏にはどんな物語があったのでしょうか?今回は北九州編の前編として、小倉・若松の町の歴史的な歩みを探って行きましょう!

北九州市の位置 

 福岡県・北九州市は「五市合併」で生まれました。
 昔は、門司市・小倉市・戸畑市・若松市・八幡市という明治から昭和にかけて発展した「北九州五市」があり、その5つの市が昭和38年に合併して、北九州市になりました。

北九州五市 画像引用元:公益社団法人全国市街地再開発協会HP

 日本を代表する貿易港だった「門司」、江戸時代からの城下町「小倉」、日本一の貨物取扱量を誇った「若松」、官営製鉄所で有名な「八幡」、そして鋳物や水産業で栄えた「戸畑」。今から60年前に、この五市がひとつとなって誕生した北九州市は、今も90万もの人々が暮らすメガタウンです。

 この五市合併は「世界でも稀な合併」と言われます。どういうことでしょうか?
 まず、合併した5つの市の人口の規模があります。昭和10年の全国市別人口トップ60にすべて入る大きな5つの都市が合併するという稀な合併だったのです。
 さらに、北九州市は隣り合う5つの市が「対等に」合併して誕生しました。このような合併は世界でも珍しいと言われます。

 それでは、どのようにして隣り合う5つの都市が合併したのでしょうか。
 ひとつひとつの町の特徴を探ると、北九州市誕生のプロセスが見えてきます。

 まずは小倉がどんな町なのか、町にそびえ立つ小倉城から探って行きます。
 小倉城の天守は昭和34年に再建されました。

小倉城の復興天守 画像引用元:ウィキペディア

 この小倉城をつくった人物は、細川忠興(ほそかわただおき)です。
 細川忠興は戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将です。関ケ原の戦いで徳川側として戦い、その功績が認められて豊前国(ぶぜんのくに)を与えられ、小倉城を築きました。

細川忠興像 画像引用元:ウィキペディア

Q1.細川忠興は茶人としても有名で、ある人物の弟子となり、その中でも特にすぐれた弟子とされていました。「わび茶の完成者」として名高い、細川が弟子となった人物とは誰でしょうか?
A1.千利休

 千利休の弟子の中でも特にすぐれた弟子であった七人の武将を「利休七哲(りきゅうしちてつ)」と呼びますが、細川忠興はそのうちの一人でした。また、忠興の妻は明智光秀の娘である細川ガラシャです。
 ただ、忠興はその後、熊本を本拠地としており、小倉にいたのは江戸時代の始まりの30年のことでした。
 
 小倉城の西側の堀の端からさらに西へと進むと、小倉城を知るポイントがあります。
 そこにあるのは石垣。現在は駐車場となっている場所の中に石垣が残っています。石垣があったことから、そこにもかつて堀があったことがわかります。
 城の堀から距離にしてわずか40mほどしかない距離にまた堀が。この城のつくりは一体どのようになっているのでしょうか?
 江戸時代の小倉城の絵図を見ると、狭い範囲に細かく堀が連なっていることがわかります。

Q2.狭い範囲に堀を幾重にもめぐらせていることには、どのような目的があったのでしょうか?
A2.城の守りを強固にすること。

 城の西側、歩いて5、6分のところに幾重にも堀がめぐらせ、さらに北側は海、東側には川があり、南側にはジグザグの堀を築くなど、小倉城は「守り」を強く意識した城だったのです。

小倉城と堀

 実は城下町にも守りの工夫が見られるのです。
 城の東側に広がる城下町へと向かいます。

 現在は商店街になっている場所へ。
 その商店街も江戸時代に細川忠興がつくった町人町(ちょうにんまち)の名残です。きちっとした正方形の街区が、そのまま残っています。
 碁盤の目のかたちは、京都を手本につくったと言われています。
 ただ、商店街の屋根を見ると、若干曲がっていることがわかります。
 碁盤の目のようにつくられた東側の城下町、地図ではまっすぐに描かれている東西の道ですが、実際には少し曲がっているのです。

Q3.実際の小倉城の城下町の道が、地図で表されたものよりも少し曲がっていたのはなぜでしょうか?
A3.見通しを悪くするため。

 道が曲がっていることにより、真っすぐな道よりも見通しが悪くなります。実は城に近づくにしたがって、見通しが悪くなるようにされていたのです。
 これも敵から城を守る目的があってのことです。
 ただ、完全に見通せないのではなく、少し横にずれると見通しがよくなるところもあり、どこか中途半端です。そこには碁盤の目も大切にしたい、一方で防御も大切にしたい、という細川忠興の葛藤が町の形状になって表れがあると考えられています。
 それほど小倉城は守りを強く意識していたのです。

 それでは、なぜ小倉城はこれほど守りを固めたのでしょうか?
 この商店街を進んだ先で、その理由がわかるのです。

 商店街をぬけて、常盤橋(ときわばし)という橋に着きます。

常盤橋 画像引用元:ウィキペディア

 城と町人の町をつなげている常盤橋。この橋は「九州の日本橋」と言うこともできます。
 その理由は、九州の五街道(長崎街道・中津街道・門司往還・唐津街道・秋月街道)がこの橋に集結しているということにあります。
 5つの街道の起点であった小倉は、九州屈指の交通の要衝だったのです。
 

元禄の頃の長崎街道を描いた絵図(ケンペル『日本誌』、ロンドン、1727年刊) 画像引用元:ウィキペディア

 すべての街道が集まる常盤橋では、様々な人や物、情報が行き交いました。
 江戸時代の常盤橋を描いた絵図を見ると、多数の船が描かれており、水運にとってもこの場所が要衝であったことがわかります。
 
 小倉はいわば「九州の玄関口」なので、城を徹底的に堅固につくっていたと考えられるのです。
 小倉城の堅い守りは、ここがいかに九州にとって大事な場所であったのかを物語っています。

 小倉城が堅固なのには、もうひとつ理由があると考えられています。
 そのことがわかる場所が、長崎街道をまっすぐ進んだ先にあります。

 長崎街道を西へ進むこと、およそ10㎞。やってきたのは街道沿いの小さな山です。
 そこにあるのは、黒崎城(くろさきじょう)の跡。黒崎城もまた、小倉城と同じ時期である、関ケ原の合戦の後につくられました。

黒崎城跡 画像引用元:北九州市HP
 
 小高い山に築かれた黒崎城。かつて城があった場所から周りを見回してみると、東の方向に小倉が見えます
 この黒崎城こそが、なぜ小倉城が堅固だったのかを解くカギになっているのです。

Q4.下の画像は、小倉城と、黒崎城を含む筑前の6つの城の位置関係を表したイメージ図です。この画像から考えられる、小倉城が守りを堅固にした理由とは何でしょうか?

小倉城と黒崎城を含む筑前6城の位置のイメージ図
が若松城、が鷹取城、が大隈城、が小石原城、が左右良城です。

A4.国境(くにざかい)の近くに位置していたため。

 黒崎城の近くには、かつて筑前(ちくぜん)と豊前(ぶぜん)の国境がありました。
 そして筑前には、国境にそって6つもの城が並んでいました。黒崎城はそのひとつだったのです。
 一方、豊前の小倉城はというと、ちょうど国境に一番近いところにあります。小倉城から国境までわずか2㎞ほどの距離です。
 小倉城の守りが堅いのは、筑前との国境に近かったことも理由のひとつだと考えられているのです。
 
 筑前を治めていた黒田長政と、豊前の細川忠興。この2人は大変仲が悪かったと言われています。

黒田長政騎馬像(福岡市博物館蔵) 画像引用元:ウィキペディア

 実は、筑前と豊前、2つの国があることが北九州市のある特徴を生んでいます。
 地図を見ると、筑前と豊前の国境がちょうど八幡と小倉の間近辺を通り、ほぼ北九州市の真ん中を通っていることがわかります。
 豊前の小倉市、門司市、筑前の戸畑市、若松市、八幡市、この2つの国が一緒になって現在の北九州市になっています。
 本来は別々の国だったので、今でも北九州市では文化の違いが見られ、筑前と豊前では言葉の違いもあります。例えば筑前では語尾に「ばい」をつける人がいるのに対し、豊前では「ちゃ」がつくことが多い、といった違いです(筑前でも「ちゃ」が使われることがあり、地域によって例外もあります)。
 
 60年前、世界でも稀な五市合併で誕生した北九州市。このエリアはもともと筑前と豊前の国境で、真っぷたつに分かれていたのです。

 次に注目するのは、筑前側にある若松市です。
 この町がどのようにして生まれ、どう発展していったのか、江戸時代の歴史から見ていきましょう。

 筑前黒田藩が行ったある大事業が、若松市誕生に大きく関わっています。その大事業がどのようなものだったのか。それがわかる場所へと向かいます。

 若松市の歴史を探るため、向かったのは北九州市の隣にある水巻町(みずまきまち)という町です。
 山の中の川沿いに岩が露出しているところがあります。
 その岩の表面に、地盤を掘った跡が見えます。
 実は、筑前黒田藩が行ったのは、およそ500mにわたって川を通すために山を切り通す、大土木工事だったのです。そこは今から400年前、黒田長政によって計画された全長12㎞の人口の川、「遠賀堀川(おんがほりかわ)」の一部です。

Q5.「遠賀堀川」はどのような目的でつくられたのでしょうか?下の画像を参考に考えてみましょう。

遠賀堀川の位置 画像引用元:北九州市HP
※赤矢印の先が遠賀堀川、青矢印の先が遠賀川(おんががわ)、緑矢印の先が洞海湾(どうかいわん)です。

A5.遠賀川の水を洞海湾に逃がすため。

 江戸時代、遠賀川流域は洪水が絶えませんでした。そこで、水を逃がすため、遠賀川と洞海湾をつなぐ人口の川「遠賀堀川」がつくられたのです。
 さらにその川の水は、遠賀堀川や洞海湾周辺の農業用水にも利用されました。
 この遠賀堀川の完成によって、黒田藩の石高は2万石アップしたと言われています。

 実はこの遠賀堀川は、筑前黒田藩にもうひとつ大きなメリットをもたらしました。
 川沿いの岩を見ると、穴が点々とあいているのが見えます。
 
Q6.遠賀堀川の川沿いの岩にあいている穴は何のために使われたのでしょうか?
A6.川をわたる舟の船頭が棹(さお)の先を入れるため。

 川を舟が行き来していたので、その舟の船頭が穴の中に棹を突っ込んで舟を止めるために岩の穴を使っていたのです。
 遠賀川流域に広がる平野は、もともと筑前国有数の穀倉地帯でした。
 遠賀堀川はここで収穫された年貢米を筑前黒田藩の米蔵のある若松へ運ぶための、重要な水運ルートでもありました。
 そしてこの堀川が、江戸から明治に変わると、若松市誕生に大きな役割を果たすことになります。

 それがわかる場所が、遠賀堀川から車で5分程のところにあります。

 頃末(ころすえ)小学校という小学校の中に、その秘密がわかる場所があります。
 学校の裏の柵の中で、岩盤が露出しているところが見られます。
 その岩盤に、キラキラと光る細い層が見えます。

Q7.岩盤の中に見られる光る岩石とは何でしょうか?ヒントは「黒いダイヤモンド」です。
A7.石炭

 その岩石の正体は石炭です。
 石炭こそが、若松誕生と遠賀堀川の関係を知るカギなのです。

石炭(無煙炭) 画像引用元:ウィキペディア

 光沢があり、経済にとって重要な資源であったことから「黒いダイヤモンド」と呼ばれる石炭。 
ここ水巻町は、日本屈指の石炭が出る「筑豊炭田(ちくほうたんでん)」のあった場所です。筑豊炭田はもともと遠賀川流域の石炭が出るところを指しています。
 水巻町で見られる露頭は薄い石炭層で、その地下には1mほどの石炭層が何十枚もあります。

三井田川炭鉱大煙突 画像引用元:ウィキペディア

 筑豊炭田は明治から昭和にかけて開発された日本屈指の石炭の産地で、「月が出た出た 月が出た」の『炭坑節』でも有名です。
 明治時代にどれほどの石炭が筑豊炭田で採れたのでしょうか。
 古地図を見ると、マルの中に「せ」と書かれた印が地図上のあちこちの場所に付けられています。その印は炭鉱を表していて、印が大きいほど、その炭鉱の面積が広いことを表しています。
 200を超える炭鉱がひしめき合っていた筑豊炭田。
 明治の半ばには日本の石炭のおよそ半分を産出するようになります。

Q8.明治時代になぜ石炭は重要視されたのでしょうか?
A8.蒸気機関の燃料となったから。

日本初の国産機関車860形 画像引用元:ウィキペディア

 蒸気機関車や蒸気船、工場など様々な場面で動力を生み出した蒸気機関。
 その燃料だった石炭は、近代日本の発展に欠かすことのできない重要なエネルギー源だったのです。
 明治のピーク時には年間13万隻が遠賀堀川を通って石炭を若松に運んでいました。

 江戸時代は、遠賀川流域は穀倉地帯だったので、遠賀堀川を伝ってお米を若松に運んでいました。
 その穀倉地帯の地下に莫大の埋蔵量の石炭があったことで、年貢米が石炭に変わったのです。
 400年前、黒田長政が計画した遠賀堀川があったからこそ、石炭を若松まで運ぶことができました。
 このことが、やがては日本一の石炭積み出し港として繁栄することになる若松市誕生へとつながるのです。
 黒田長政は、自分が計画した運河が数百年後に若松市を生むことにつながるとは、思ってもみなかったでしょう。

 そこで、いよいよ若松へと向かいます。
 と、今回はここまで!
 次回・北九州編の後編では、いよいよ北九州市の誕生の全貌が明らかになります!

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