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今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は9月30日に放送された利尻島編です。
その美しさから「利尻富士」とも呼ばれる名峰・利尻山が中央にそびえ立つ利尻島。島の名物は何といっても「利尻昆布」です。利尻昆布は京料理をはじめ、おいしい和食に欠かせない高級だし昆布です。絶景・絶品を生み出す利尻島をつくり出した火山活動とはどのようなものだった?絶品・利尻昆布を生み出す島の地形的特徴とは?利尻島にばく大な富をもたらした魚の正体とは?名峰・利尻山は日本の歴史の重要な転換点の立役者だった?絶景・絶品にあふれた利尻島は、一体どんな島なのでしょうか?その地理的特徴、歴史の歩みを探って行きましょう!
利尻島の位置
北海道・稚内から西におよそ40kmに位置する利尻島。稚内からフェリーで1時間40分かけて着くことができます。
フェリーからも見える利尻山の景色は、大正12年の調査で北海道ナンバーワンに選ばれました。
利尻山とオタトマリ沼 画像引用元:ウィキペディア
利尻山は標高1721mで、利尻島が誇る絶景です。
利尻島は中央に利尻山がそびえ立ち、島のかたちはほぼ円形をしています。島の周囲は約60km、車だと1時間ちょっとで一周できる島です。
そこで今回は一周60kmの利尻島をグルっと巡ってみましょう。
利尻山の地形図 画像引用元:ウィキペディア
フェリーターミナルから見ると、海岸から小山が飛び出たようなかたちをしたところがあります。その小山のような岬に行くと、利尻島の絶景の誕生の秘密がわかります。
そこでまずは、フェリーターミナルから500mほどのところにある岬へと向かいます。
ペシ岬の先端(北西側) 画像引用元:ウィキペディア
訪れた岬の名前は「ペシ岬」、アイヌ語で「大きな崖」という意味があります。岬の中腹からは、迫力ある「露頭(ろとう):岩石や地層が露出している部分」が見えます。
このペシ岬は、「溶岩ドーム」です。
Q1.溶岩ドームとは、○○○の強いマグマがほとんど流れずに盛り上がった地形のことです。○○○に入る言葉は何でしょうか?
A1.粘り気(ねばりけ)
火山の種類の中で「溶岩ドーム」には、マグマの粘り気が強く、岩石や火山灰の色が白っぽいという特徴があります。代表的な溶岩ドームの例には、昭和新山や雲仙普賢岳があります。
岬から周辺を見ると、ペシ岬と似たような形のものが見られます。夕日ヶ丘展望台という観光スポットも、ペシ岬と同じく溶岩ドームです。さらに、利尻山の右側下に見える、ポン山と呼ばれる2つの小山もまた溶岩ドームです。
これらはすべて、現在の利尻島の姿をつくった火山活動の最初の時期にできた場所、いわば、「利尻島の1期生」なのです。
それでは、1期生と呼ばれる地形は、どれくらい前に出来たのでしょうか?
これらの地形は、およそ10万年前以降にできたと考えられています。その頃にはまだ利尻山はできていませんでした。
溶岩ドームができる火山活動が起きる前は、この場所はどうなっていたのでしょうか?
その頃のこの場所は、古い利尻島と書いて「古利尻島(こりしりとう)」と呼ばれる、いわば「0期生」で、標高100m程の基盤となる島が広がっていたのです。
利尻山の付近で標高100mほどの崖が続いているのが見えますが、それが基盤岩(古利尻島)の跡です。
4万年~3万年前の利尻島イメージ図
最初は「古利尻島」と呼ばれる平らな島だった利尻島。およそ10万年前、その古利尻島の上で、溶岩ドームを形成する火山活動が始まります。その後、噴火を繰り返して、4万~3万年前に2期生として今の利尻山ができました。
利尻島の絶景は時期の異なる火山活動の積み重ねによって生まれたものなのです。
そんな利尻島の「絶景」が、島が誇る「絶品」ももたらしてくれています。
島をまわってそれがわかる場所へと向かいます。
向かったのは島を約20km周った漁港です。
利尻島の絶品と言えば「昆布」。その昆布は海岸からも生えているところが見えます。昆布は主に水深1~10mの浅い海で育つのです。
利尻昆布
利尻島では毎年7月~9月に、天然の昆布漁が行われ、全国各地に出荷されています。昆布には等級があり、最も高級な天然の一等検のもので1㎏あたり14,000円くらいします。
実は、利尻昆布は利尻島でとれる昆布だけを指すのではありません。
利尻昆布は、北海道の北部でとれる昆布の種類を指しますが、中でも利尻島産の昆布は特に品質がよい高級品とされ、湯豆腐や千枚漬けなどの京料理に欠かせないものとなっています。
Q2.利尻昆布から出た出汁(だし)は濁りのない透き通った色をしています。この特質を持った利尻昆布がなぜ京料理や精進料理で多く使われるのでしょうか?
A2.素材本例の味や見た目を活かすため。
濁りのない透き通った色をした出汁となる利尻昆布は、素材本来の味や見た目の両方を大切にする京料理や精進料理にはうってつけなのです。
ちなみに同じく高級昆布で、濃厚なうまみやコクの強さが特徴の羅臼(らうす)昆布は主に鍋料理に、風味が豊かな日高昆布は出汁だけでなく昆布巻きなど幅広い料理に使われています。
それでは、なぜ利尻島産の利尻昆布が品質がよいとされているのでしょうか。
実はその秘密には島の絶景をつくり出した「地形」が関係しているのです。
それがわかる場所へと向かいます。
訪れたのは、漁港近くの民家の裏です。
谷のような地形をしたその場所、実は川なのです。
めったに水が流れない水無川で、地元ではよく「かれ川」や「から川」と呼ばれます。利尻島には50以上の川があるのですが、そのほとんどは水がめったに流れない「かれ川」です。
この「かれ川」が多いことが、絶品・利尻昆布と絶景とのつながりを解き明かすカギとなります。
Q3.利尻島の「かれ川」を流れずはずの水はどこに行っているのでしょうか?
A3.すべて地下を流れている。
利尻島は利尻山の噴出物が堆積した、水を通しやすい地層に覆われています。そのため、山に振った雨や雪どけ水は川を流れず地中にしみ込んで行きます。
水はやがて、水を通しにくい古利尻島の地層に達して、海底から湧き出してくるのです。
海底湧水が発生するイメージ図
この「海底湧水(ゆうすい)」は島全体で1日4万トン以上もの量になると言われています。
その湧水が、海にさまざまな栄養をもたらします。湧水にはミネラル分も含まれていますが、特に窒素やリンといった栄養が海水の数倍から数十倍含まれているので、昆布の成長に非常によい影響を与えていると考えられています。
利尻島では海底湧水があることで、5月から6月になると、他の海では見られないような珍しい光景が発生します。
その名は「ホッケ柱」です。
ホッケ柱 画像引用元:東京大学 大気海洋研究所
Q4.「ホッケ柱」は、海底湧水によって大量に繁殖した○○○○○○を求めて、数万匹ものホッケが渦を巻く現象です。○○○○○○に入るカタカナ6文字は何でしょうか?
A4.プランクトン
プランクトンを求めて、数万匹ものホッケが集まってくるので、ホッケ漁も行われています。
「ホッケ柱」もまた、栄養豊富な利尻島の海ならではの光景なのです。
利尻島の利尻昆布は海底湧水がもたらす豊富な栄養によって絶品となっていたのです。
実は絶品・利尻昆布は、島を代表するさらなる「絶品」を生み出しています。
それを探るために、先程昆布を見た漁港へと再び向かいます。
絶品・利尻昆布が生み出す「絶品」は、実は昆布と同じ場所にいるのです。
昆布と一緒にいる「絶品」の正体は、ウニです。
Q5.なぜウニを生み出しているのが利尻昆布であると言えるのでしょうか?
A5.ウニが利尻昆布を食べて育っているから。
利尻島のウニ漁
漁師さんによってとられたばかりのウニの中身を見てみます。ちなみに利尻島では、エゾバフンウニとキタムラサキウニの2種類がとれます。
ウニの中に黒い粒が混じっています。
その粒の正体は利尻昆布です。ウニが利尻昆布を食べているのです。
食べるものによって、ウニはその味が大きく左右されます。利尻島のウニは毎日、体重の1割ほどの利尻昆布を食べて育つと言われます。
特別な昆布を食べて育つからこそ、利尻島のウニもまた絶品になるのです。
ちなみに今でこそウニは島の宝とされているのですが、大正時代までは島の大切な利尻昆布をエサとして食べてしまうので、天敵とされ駆除されたという歴史があります。
利尻島の絶景が、絶品・昆布を生み、その昆布がさらに絶品・ウニを生み出す。
利尻島の絶景と絶品は深く結びついているのです。
ここからは、かつて利尻島にばく大な富をもたらしたものについて探って行きます。
利尻島屈指の観光スポットのひとつである「仙法志御崎公園(せんほうしみさきこうえん)」へ。
かつて利尻島にばく大な富をもたらした「絶品」の痕跡が、現在は囲いのようになっています。その囲いは、明治時代以降に「ある魚」をこの場所に一時的に置くために造られたものです。
Q6.春になると産卵期を迎えて北海道沿岸に現れる「ある魚」とは何でしょうか?ヒントは、「数の子(カズノコ)」、「ソーラン節」です。
A6.ニシン
ニシン 画像引用元:ウィキペディア
利尻島にばく大な富をもたらした魚とはニシンです。
数の子はニシンの魚卵、卵巣をそのまま塩漬けまたは乾燥させたものです。また、ソーラン節はニシン漁の際に歌われたものを起源としていると言われています。
調理された数の子 画像引用元:ウィキペディア
ニシンは北前船で全国的に流通した魚です。明治から昭和30年代にかけて、北海道の日本海側を中心に大量にとれました。利尻島でも最盛期の大正時代には、年間10万トン以上もの漁獲量を誇っていました。
痕跡として残っている囲いは、「袋間(ふくろま)」と言って、すぐに出荷できないほど大量にとれたニシンを一時的に保存しておくための場所だったのです。
ニシン漁の様子 画像引用元:国土交通省 北海道開発局HP
大漁が2、3日も続くと、当時1年間、家族が十分に暮らせるほどの収入があったと言われています。
大量にとれたニシンは食事用だけでなく、油を搾って燃料としたり、その残りカスは綿花栽培の肥料にしたりして使われたりもしました。
まさにニシンは捨てるところがない絶品だったのです。
ちなみに袋間だった場所は、今は観光客が訪れる定番の観光スポットになっています。
観光客が目当てとしているのは、ゴマフアザラシです。ゴマフアザラシは毎年6~9月の観光シーズンに稚内の水族館から出稼ぎにやってきます。
かつてニシン漁に使われた袋間が、今は利尻島の観光に、一役買っているのです。
ばく大な富を島にもたらした絶品ニシンは島を一変させました。
その変化について、さらにこの先へ進んで解き明かして行きます。
かつて鬼脇村(おにわきむら)という、かつてニシンのおかげで、利尻島で最初に大きな発展をしていった町のあった場所を訪れます。
明治のはじめは100人あまりが暮らす小さな町でしたが、ニシン漁が盛んになると人口が一気に急増、昭和20年代には5000人以上が暮らすようになったのです。
島がどう変わったのか、かつての鬼脇村役場に行けばよくわかります。
利尻島郷土資料館 画像引用元:稚内観光協会HP
村役場は大正2年に建てられた洋風建築で、今も当時のままの建物は残されています。現在は郷土資料館になっているのですが、ここに島がどう変わったのかがわかる貴重な資料が展示されています。
資料館には、北陸、輪島の漆器が展示されています。さらにその隣には、徳利があり、「チミノヲ」と記されています。「チミノヲ」を逆から読むと、「尾道」。その徳利は広島県の尾道のものです。
他にも新潟県でつくられた徳利や、島根県の石見焼の石がめなどが展示されています。
Q7.郷土資料館に日本各地の日用品が展示されていることから、利尻島にどのような変化があったと考えられるでしょうか?
A7.日本各地から利尻島に移住してくる人々がいた。
明治から昭和にかけて、全国からニシン漁で一攫千金を夢みた人々が利尻島に大挙して押し寄せてきました。
絶品・ニシンによって、利尻島は「移住者の島」として大いににぎわうことになったのです。
さらに、利尻島内にある神社の分布図を見ると、移住してきた人々が建てた神社が島に多数分布していることがわかります。富山県ゆかりの獅子舞が行われるなど、移り住んだ人たちの文化や風習は、今もなお利尻島に残っているのです。
利尻島一周の旅も終盤を迎えます。
利尻島の絶景、実は日本の歴史上の転換点にも関係しているのです。
ペシ岬を望む場所に、ラナルド・マクドナルドというアメリカ人の石碑があります。
マクドナルドは、江戸時代の終わり頃、1848年に利尻島にやってきました。
ラナルド・マクドナルド 画像引用元:ウィキペディア
マクドナルドは、鎖国下で謎のベールに包まれていた日本に強い関心を持っていました。鎖国下の日本に入国するため、マクドナルドはハワイから捕鯨船に乗り込み、単身、途中で小舟に乗り換えて、遭難を装って利尻島に上陸しました。
では、マクドナルドは、なぜ利尻島を上陸の地に選んだのでしょうか?
それは利尻山が航海上の目印になっていたからです。
初めて向かう異国の地において、航海の目印にするのは海上に突き出た利尻山がうってつけでした。
利尻島に上陸後、マクドナルドは幕府によって長崎へと移送されましたが、このことが日本の歴史上の転換点に大きく関わったのです。
マクドナルドは当時長崎で、オランダ語の通訳をやっていた14人の日本人に英語を教えました。
その中で最も覚えが早かった生徒が、森山栄之助(もりやまえいのすけ)という人物です。
森山栄之助 画像引用元:ウィキペディア
Q8.森山栄之助は、幕末に日本に訪れた、とあるアメリカ人との交渉の際に通訳として活躍しました。
そのアメリカ人とは誰でしょうか?ヒントはマクドナルド氏が日本に上陸した1848年の5年後に、その人物が日本に来航したことです。
A8.マシュー・ペリー
その人物とは、アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーでした。ペリーは1853年に浦賀に来航し、日本に開国を要求。翌年に幕府との間で、日米和親条約を締結しました。
マクドナルドが利尻山を目指して利尻島にやって来たからこそ、森山栄之助が英語を覚えて通訳として活躍し、ペリーと幕府の交渉がスムーズに運んだと考えると、利尻山という利尻島の「絶景」がなければ日本の開国はなかったのではないか、と考えることもできます。
北の海に浮かぶ利尻島。
その「絶景」が数々の「絶品」を生み出し、今も昔も多くの人々を魅了しているのです。
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