No.1385 『ブラタモリクイズ!白の奇跡 秋吉台~秋吉台のヒミツは“穴”にあり?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は10月21日に放送された秋吉台編です。

 今日の舞台は、山口県の秋吉台。3億5千万年という長い年月が育んだ石灰岩の台地は、「白の奇跡」とも呼ばれています。石灰岩が生んだ神秘的な景観を求めて、年間45万人もの観光客が訪れます。秋芳洞最大級の鍾乳石を生み出したのは断層の力だった?石灰岩に開いた大きな穴にできた集落を開拓したのは、あの戦いの落ち武者たちだった?秋吉台が「人工的な穴だらけになる」危機を救ったのは?秋吉台の「穴」の秘密とは一体何でしょうか?秋吉台が生み出した美しい景色の地理的特徴や人々の営みの歴史について探っていきましょう!

秋吉台(秋吉台国定公園)の位置 

 秋吉台は石灰岩でできた巨大な台地です。

秋吉台 画像引用元:ウィキペディア

Q1.秋吉台のように、石灰岩などの水に溶解しやすい岩石が雨水や地下水などによって侵食されてできた地形のことを「○○○○地形」と言います。○○○○に入る、カタカナ4字は何でしょうか?
A1.カルスト

 秋吉台は台地ですので、「カルスト台地」と呼ばれています。
 もともとは、およそ3億5000年前に、南の海に生まれた「サンゴ」でしたが、プレートに乗って移動して、隆起することでできました。

カルスト台地ができるまでのイメージ図

 石灰岩が、カルスト台地ならではの風景を生み出しているのです。
 まずは、秋吉台が見渡せる展望台に向います。

 秋吉台は、かつては全て海の底でした。
 その広さは4502ヘクタールで、東京都の江東区と同じくらいの面積が、国定公園に指定されているのです。約50万人が暮らす、江東区に匹敵する広さ。秋吉台は日本最大級のカルスト台地なのです。
 秋吉台の地形には、ゆるやかな傾斜で、穴らしきものが見られる特徴があります。
 秋吉台のあちこちあるのが、「ドリーネ」と呼ばれる穴です。

 地形を見てみると、ドリーネはたくさんあるのに、川が見られません。
 石灰岩だらけの土地だと、なぜ川ができずにドリーネができてしまうのでしょうか。
 その理由を実験で確かめてみましょう。
 
 用意したのは石灰岩と泥岩です。

石灰岩 画像引用元:ウィキペディア

泥岩(シルト岩) 画像引用元:ウィキペディア

 雨水は本来弱酸性ですが、わかりやすいように酸性を強めた水を雨に見立てて使います。
 まず、泥岩にその水をかけると、特に変化がなく流れて行きます。
 一方、石灰岩にかけると、すぐに発砲して溶け出しました。
 雨水は普通の石だと、特に変化は起こらずにそのまま流れて行くのですが、石灰岩だと表面やすき間などから、水が石を溶かして行きます。

Q2.実験の結果から、秋吉台ではなぜ川ができずに穴ができるのだと考えられるでしょうか?
A2.石灰岩が雨水に溶けてしまうので、雨水が川にならずに、穴をあけて地下にしみこんでしまうから。

 雨が降っても、石灰岩を溶かしながら地下にしみこんで行くので、川ができずにドリーネができるのです。
 その地下には洞窟、「鍾乳洞(しょうにゅうどう)」があります。

 展望台から車で15分ほどの場所にある、秋吉台を代表する鍾乳洞「秋芳洞」を見に行きます。

秋芳洞の入口 画像引用元:ウィキペディア

 秋吉台最大の鍾乳洞、秋芳洞には地下につながるエレベーターがあります。エレベーターで鍾乳洞の地下80メートルまで一気に下りて行きます。地下に下りてみると、気温差が15度もあります。
 秋芳洞は穴だらけの秋吉台の中でも、最も有名で最も巨大な穴です。
 石灰岩が水に侵食されてできた、こうした洞窟を鍾乳洞と言います。秋吉台には、わかっているだけでも450を超える鍾乳洞があり、さらにまだある可能性もあると言われています。
 地上だけでなく、地下は地下で穴だらけなのです。

 そんな秋芳洞の中でしか見られない、不思議な光景を見に行きます。
 天井から、つららのように連なっている石が見えます。
 その正体は、「鍾乳石」です。
 鍾乳石とは、雨水で溶かされた石灰岩の成分が地下で再び固まったもののことです。そして、その雨水の入口になっているのが、主にドリーネなのです。

 鍾乳洞ではいたるところに、大小様々な鍾乳石があります。

 続いてやってきたのは、「黄金柱」と呼ばれる鍾乳石の一種です。高さおよそ15m、太さ4mと、秋芳洞の鍾乳石の中でも最大級の大きさを誇ります。

秋芳洞の黄金柱 画像引用元:ウィキペディア

 黄金柱が秋芳洞最大級の大きさになるまで、いったい何年くらいかかったのでしょうか。
 その年数を、おおまかに推測する方法があります。
 黄金柱の根元に、年輪のようにしまが見えるところがあります。
 それは鍾乳石の成長の過程が記録されている、「成長線」と言われる断面で、鍾乳石の成長が刻まれています。
 その成長線の間隔から、鍾乳石の成長の速さがわかります。つまり、黄金柱の太さから、おおよその年数がわかるのです。
 鍾乳石ができるペースは、平均して1年に0.1ミリ。
 黄金柱ができてからの詳しい年数はわかっていませんが、太さからは、およそ4万年と推測されます。
 
 では、なぜこの場所にこれほど大きな鍾乳石ができたのでしょうか。
 それを考えられるヒントとなるものが、黄金柱の裏にあります。
 黄金柱の背後にある壁全体に、斜めに直線的に続いている亀裂があります。その亀裂は「断層」の働きが生んだものです。
 亀裂がそこにあることから、真上に断層が走っていることがわかります。

Q3.断層があることと、大きな鍾乳石ができることに、どのような関係があると考えられるでしょう?ヒントは「亀裂」です。
A3.断層によって生まれた亀裂は、ただの割れ目よりも水が通りやすかったから。

 断層によって亀裂が生まれると、そこから雨水がしみこんで浸食されて行きます。断層や、その周りにも、亀裂が生まれて、他の場所よりも水が流れてきたことで、大きな鍾乳石がつくられたと考えられています。

 続いて向かったのは、洞窟の中心部に近い場所。「千畳敷(せんじょうじき)」と呼ばれるところです。
 日本で一番広い地下空間と言ってもいいかもしれません。
 秋芳洞がどのようにしてできたかがわかる痕跡が、この千畳敷の中にあります。
 
 千畳敷の辺りで、今まで見てきた秋芳洞とはちょっと違う部分が見られます。
 この辺りの岩石は表面がガザガザしています。今までの岩石はもっとツルツルしていました。
 礫(れき)を含んだ、今までとは違う石でできています。

Q4.礫が見られるということから、かつてここで何があったと考えられるでしょうか?ヒントは、背後に水が流れていることです。
A4.地下の川が礫を運んできたということ。

 地下の川は礫のほかにも砂を運んできました。丸みをおびた石、まさに川の石も見られます。
 この石はどこからやってきたのでしょう?
 秋吉台の北端にある穴を映した写真を見ても、地下を流れる川はドリーネからは入ってきていないことがわかります。
 秋芳洞の中の川は、カルスト台地の外から流れ込んでいるのです。
 さらに、壁に小石があるということから、昔は川が今より高い場所を川が流れていたことがわかります。川はだんだん掘り下がってきたことになります。

 外から流れてきた水が、川底を侵食することによって、川底が低くなって行きます。
 さらにそれまで川が接していた壁や天井が崩れ、洞窟の大きな空間が生まれたのです。

空間ができるイメージ図

 壁や天井が落盤する前、秋芳洞はもっと不安定な状態でした。
 石橋と同じ原理で、天井の石が横に圧力がかかって支え合うような構造になっているのです。

 いよいよ洞窟探検も終盤を迎えます。

 秋芳洞で最も有名な鍾乳石、「百枚皿」と呼ばれるものがあります。

秋芳洞の百枚皿 画像引用元:ウィキペディア

 田んぼのあぜのように見えるので、「あぜ石鍾乳石」と言われています。
 海外でも有名な場所で、海外の本やパンフレットで紹介するときは、必ずこの百枚皿が掲載されます。
 同じような形態の温泉がトルコの「パムッカレ」という、石灰石を含んだ温泉で、世界遺産に登録されています。

パムッカレの温泉石灰華段丘 画像引用元:ウィキペディア

 洞窟探検は終了ですが、秋吉台の穴の秘密はまだまだあります。

 ここまで、数万年をかけて穴が生み出した鍾乳洞を見ることで、鍾乳洞の「過去」がどうだったかの話をしてきましたが、ここからは、はるか未来に鍾乳洞はどんな形になって行くのかを見て行きます。

 秋芳洞から車で10分ほどのところ、鍾乳洞の未来を知るヒントがある場所へと向かいます。

 到着したのは河原。一見、ただの谷ですが。この何でもないような谷の地形はどうやってできたのでしょうか。
 今は川が流れていますが、実はこの場所、もともとは鍾乳洞だったのです。
 川の対岸を見てみると、石灰岩が露出しています。
 背後にある壁もまた石灰岩のカルスト地形で、川の両側に石灰岩があるということになります。
 谷を流れているのは「厚東川」。秋吉台ではめずらしい、地上を流れる川です。

厚東川ダム 画像引用元:山口県HP

 地質図を見ると厚東川は、石灰岩のエリアの真ん中をつらぬいて流れています。
 もともとこの川はカルスト台地の下を流れていて、秋芳洞のような鍾乳洞もつくっていたと考えられています。
 つまり、川の水による浸食と落盤が進んだことで、天井がなくなってしまったということなのです。
 昔は地下に川が流れていたのが、天井がなくなったことで鍾乳洞ではなくなり、地上の谷に変わったのでした。
 天井があった頃を想像してみると、秋芳洞とは規模が違います。もしも天井が残っていたら、世界一の鍾乳洞になっていたかもしれません。

 秋吉台の真中をつらぬく厚東川は、秋吉台に、これまで見てきたものとは異なる、別の顔を生乱しました。
 秋吉台は、厚東川によって地形的に2つに分断されたので、台地が東と西に分かれました。

東台と西台 
※ウィキペディアより引用の画像を編集

 これまで見てきた場所は東台で、カルスト台地の美しい景観を保存して、多くの観光客が訪れるエリアとなっています。
 それでは一方の西側はどうなっているのでしょうか?

 それは、川の上流に向かって歩くとわかります。

 採石をしている鉱山が見えます。その山は全部石灰岩でできています。
 西台は人が「活用」するエリアなのです。
 秋吉台の西側では、江戸時代から石灰石の採掘などが行われていました。

Q5.石灰石が採掘された秋吉台の西側は「日本の経済成長を支えていた」と言うことができます。それはなぜでしょうか?
A5.秋吉台の石灰石が、高度経済成長期にセメントなどの材料として、鉄道やビルの建設に利用されたから。

 秋吉台の石灰石は純度が高く良質だったので、全国からセメント会社が集まり採掘を行っていたのでした。

 そんな西台には、カルスト台地が生み出した穴を生かした変わった場所があります。
 厚東川から車で15分ほどの場所へと向かいます。
 この場所でカルスト台地が生み出した穴を生かしているとは、どういうことなのでしょうか。

 西台の北側に 江原(よわら)という集落があります。
 そこでは、石州瓦(せきしゅうがわら:島根県石見地方でつくられる日本三大瓦のひとつで、赤茶色が特徴)も見ることができます。
 高台から見ると、この集落がかなりくぼんでいることがわかります。
 この集落は、南北約2km、東西約1kmのくぼ地の中にあります。
 ここは、石灰岩が生んだ穴、ドリーネのさらに大きいもので、「ウバーレ」と言います。

ウバーレの海外の例(ドイツのフンテン湖) 画像引用元:ウィキペディア

この江原の集落があるくぼ地は、石灰岩に開いた大きな穴「ウバーレ」なのです。

Q6.この地域は周囲が山に囲まれていて人目につかない地形のため、ある戦いに敗れた者たちが逃げのびてきたと伝えられています。徳川氏が豊臣氏を滅ぼすこととなった、その戦いとは何でしょうか?
A6.大坂夏の陣

大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣所蔵) 画像引用元:ウィキペディア

 1615年に起きた「大坂夏の陣」で敗れた落ち武者が逃げのびてきて、ここを開拓したという歴史資料が残されています。
 普通のくぼ地と違うのは、普通はどこかに川が流れて出るところがありますが、ここは出口が全くありません。
 昭和39年に撮影された江原の写真を見ると、今とほぼ同じで、畑があったことがわかります。
 江原の人たちの暮らしを支えていたのは、ウバーレが生んだ斜面でした。
 江原では、ゆるやかな斜面と石灰岩の水はけの良さを生かして、たばこやサツマイモ、大根にあずきなどの畑作が盛んに行われていました。
 広い斜面を自由に使えたことがポイントでした。これも石灰岩の穴ならではの地形です。

 一方で水はけが良すぎると、困ることもあります。
 それは「飲み水」が手に入りにくいことです。それでも江原の集落には、400年以上も人々が暮らしてきているという歴史があります。
 そこで、石灰岩の穴の中で暮らすことができた痕跡を探りに行きましょう。

 代々、江原で暮らす、ある住民の方の家を訪れます。
 家の奥に、この集落で暮らすための知恵があるのです。
 庭に井戸があります。地下水位が高くて、きれいな水です。
 隣にある空き地にもまた井戸があります。

Q7.江原の集落には、いくつもの井戸がありますが、水が流れてしまう石灰岩の穴の中で、なぜ井戸があるのでしょうか?
A7.水を通さない層があるため。

 実はこの集落の地形の中には、石灰岩だけでなく泥岩の混ざった地層があるのです。
 なぜ石灰岩の土地に泥岩があるのかというと、秋吉台のもととなる石灰岩が陸地にぶつかり、持ち上がりながら泥岩にぶつかったからなのです。

石灰岩が泥岩にぶつかるイメージ図 画像引用元:ウィキペディア

 水を通しにくい泥岩の層が地表付近にあったから、井戸を掘って水を得ることができたのです。
 それでは、大雨が降った時に、集落はどうなってしまうでしょうか。
 そんな時にも村にある穴が活躍をしていたのです。そのことがわかる場所に向かいます。

 ウバーレの集落の中で標高が低いところで、「水の吸い込み穴」と呼ばれるものがあります。
 集落の中に降った雨は吸い込み穴に流れて行きます。
 その水の行き先とはどこでしょうか。
 吸い込み穴は自然にできたものを集落の人々が定期的に掃除するなど守り続けてきたものです。そしてこの穴に集まった雨水は、地下の洞窟を通って、厚東川へと流れています。
 
 秋吉台の広大なカルスト台地にできたウバーレ。そして、そのウバーレで暮らしてきた人々。
 江原の400年の営みは、自然と人が織りなしてきたものだったのです。

 秋吉台は穴が様々な顔を生み出してきた場所ということがわかりました。
 ですが、戦後まもなく秋吉台に大きな危機が訪れます。その危機は、どのようにして乗り越えられてきたのでしょうか。
 それを最後に探ってみます。

 再び秋吉台の東側へと向かいます。

 秋吉台メインの展望台。観光客が一番多く訪れる場所です。
 
 秋吉台に訪れた大きな危機とは、「人工的に穴だらけになりそうだった」ということです。

Q8.秋吉台が「人工的に穴だらけになりそうだった」とはどういうことでしょうか?ヒントとして、軍事的なことと関係があります。
A8.アメリカ軍の軍事演習場として使われそうになったこと。
 
 戦後、秋吉台はアメリカ軍に接収されて、爆撃演習場として使われるという計画が持ち上がりました。
 秋吉台の美しい景観が失われる危機が訪れたのです。
 そんな秋吉台を危機から守るために立ち上がったのが、住民や研究者たちでした。
 大規模な運動が行われた結果、爆撃演習場で使う計画は撤回されました。
 そして、今も見られる秋吉台の景色が守られたのです。
 
 今も秋吉台を守るために、地元の人々がやり続けているものがあります。
 それは「山焼き」です。

山焼きの様子 

 毎年2月に行う山焼きには、近隣の住民およそ1000人が参加して、周囲から一斉に火が入れられます。
 秋吉台の草原は、そのままにしておくと、すぐ森になってしまいます。山焼きをすることで、秋吉台の景観を守ってきたのです。

 「白の奇跡」と呼ばれる秋吉台が生み出した美しい景色や人々の営み。
 3億5000万年という長い時間を経て、私たちが今もその姿を目にすることができるのは、まさに「穴の奇跡」のおかげだったと言えるのです。

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