No.1402 『ブラタモリクイズ!東京・目白~目白ブランドの正体とは?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は11月18日に放送された東京・目白編です。

 今回の舞台は東京・目白。都内でも有数の高級住宅街が広がる場所で、駅のすぐ近くには緑豊かな学習院大学のキャンパスがあります。今は美しいマンションとなっている、目白の地名発祥の地の秘密とは?江戸の町のど真ん中になぜ滝が?あの総理大臣も目白ブランドに魅了されていた?学習院は富士山のふもとにつくられるかもしれなかった?学習院の学生寮のひさしはなぜ高い?新宿や池袋という巨大ターミナル駅の間にありながら、自然豊かで落ち着いた雰囲気が漂う町、目白。そんな目白のブランドイメージはどのようにして生まれたのでしょうか?目白の歴史と地理的特徴を探りながら、その謎を解き明かしていきましょう!

東京・目白の位置 

 東京豊島区にあるJR山手線の目白駅前。
 目白といえばすぐ近くに緑豊かなキャンパスの学習院大学があります。
 目白駅は、高田馬場駅と池袋駅という乗降客数が多い駅の間にありながら、どこか奥ゆかしい街のたたずまいがあり、落ち着いた感じの漂う駅です。

JR目白駅(筆者撮影)

 目白という場所ですが、目白の地名がつくのは豊島区の目白と文京区の目白台の2か所です。
 ただ、「目白」が名前についたマンションやアパートは東西に広く分布しています。そこには、「目白に住んでいる」と言いたいと思わせるだけの目白ブランドの力があると言えます。
 今回は東西に広がるエリアを「目白エリア」として、それだけ広がっている目白ブランドの正体に迫って行きます。

 まずは、目白駅から東に800mのところへ向かいます。
 この辺りの住所は「高田」ですが、名前に「目白」が付く建物が多く見られます。
 目白の地名の由来は、「目白不動尊」にあります。目白不動尊は江戸五色(ごしき)不動の1つです。

Q1.五色不動は徳川家の将軍が、天下泰平を祈念して定めたと言われています。この将軍は参勤交代を制度化し、鎖国を完成させるなどの政策を行いましたが、その将軍とは誰でしょうか?
A1.徳川家光

徳川家光像 画像引用元:ウィキペディア

 五色不動は徳川三代将軍・家光が天下泰平を祈念して、定めたと言われ、特に目黒(東京都目黒区下目黒)と目白が非常に有名ですが、他にも目赤(東京都文京区本駒込)、目青(東京都世田谷区太子堂)、目黄(東京都台東区三ノ輪・江戸川区平井)があります。
 
 道を進むとある電柱に「目白不動 金乗院(こんじょういん)」と書かれています。そこで案内されている通りに、坂を下って目白不動尊へと向かい、目白ブランドのはじまりを探りましょう。

目白不動尊(金乗院)の本堂 画像引用元:ウィキペディア

 目白不動尊の門の前に立つ目白不動明王像は、江戸時代に目白不動尊に信仰を寄せた人が寄進したと考えられています。

 

目白不動明王像(筆者撮影)

 その明王像の裏側に重要なヒントが隠されています。
 そこには「新長谷寺」と書かれています。金乗院なのに新長谷寺とはどういうことでしょうか?

目白不動明王像の裏側(筆者撮影)
※オレンジ矢印の先に「新長谷寺」と書いてあります。

 実は目白不動尊は新長谷寺からこの場所に移ってきたのです。目白不動尊のご本尊はもともと新長谷寺という別のお寺にあったのです。
 新長谷寺が太平洋戦争の空襲で焼けてしまい、ご本尊や残った石像を、この金乗院に移したのです。

 では、もともとの目白不動尊はどこにあったのでしょうか?
 江戸時代の古地図で探してみましょう。古地図を見ると、もともとの目白不動尊は、目白坂の上の方にあったことがわかります。
 そこで、金乗院から1km東、もともと目白不動尊があった場所へと行ってみます。

 目白坂を上るとお寺が並んでいます。
 大泉寺(だいせんじ)・永泉寺(えいせんじ)・養国寺(ようこくじ)、そして八幡宮と、江戸時代そのままに現在も立ち並んでいます。
 そして坂を上り切った辺りに、目白不動・新長谷寺のあった跡地があります。
 今はマンションになっています。

文京区関口・かつての新長谷寺付近(写真左方向) 画像引用元:ウィキペディア

 マンションの中庭には、大きなけやきの木があります。その木が目白不動尊の時代にあったかどうかの確認はとれていませんが、この辺りにお堂があったと考えられています。
 さらに奥へと進むと 目白不動尊が当時どんな場所だったのか感じることができます。
 そこは高低差が約15mもあり、崖のようになっています。
 『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に描かれた目白不動からは見晴らしがよく、早稲田から向こうまでが見渡せることがわかります。

『江戸名所図会』4巻より目白不動堂 画像引用元:ウィキペディア

Q2.『江戸名所図会』は江戸時代後期の天保5年(1834年)、同7年(1836年)に刊行されましたが、この時期に起きた「天保のききん」に対する幕府の対応に憤り、同志とともに挙兵した人物とは誰でしょうか?
A2.大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

大塩平八郎像 画像引用元:ウィキペディア

 高台からの美しい景色を眺めながら、御利益にあずかることができた目白不動尊。
 江戸時代の人気スポットから目白ブランドは始まっていました。

 ここで改めて、目白の地形を確認してみましょう。
 「目白エリア」の大半は高台で、南側には目白崖線(がいせん)と呼ばれる崖が続いています。目白不動尊があったのは、この崖の東の端です。
 実は、崖の下にも目白ブランドを高めたものがありました。
 そこで次は、崖の下へと行ってみます。

 少し下りると、地形が切り立っている感じがよくわかります。
 崖を下りて行くと、擁壁(ようへき:土留めの壁)が時代ごとに変わっている様子がわかります。
 その中には野面積み(のづらづみ:自然の石をそのまま積み上げる方法)も見られます。
 石垣の時代の変遷が感じられます。

野面積み(松坂城 三重県) 画像引用元:ウィキペディア

 崖の下まで下りてくると、目の前に神田川が流れています。
 川にかかる「大滝橋」という橋があります。その名前から、そこには滝があったことがわかります。

 

大滝橋(筆者撮影)

Q3.この辺りに滝があったのは何のためでしょうか?
A3.分水(ぶんすい)のため。

 この辺りに滝があった目的は「分水」でした。分水とは、同じ水源あるいは水路から新しく水路を引いて灌漑(かんがい)や生活用水を分配することを言います。
 この辺りではダムをつくって、上水道の水をこの場所で引き込んでいたのです。
 通称「大洗堰(おおあらいぜき)」と呼ばれる場所がこの辺りです。

大滝橋にある「大洗堰跡」の説明書き(筆者撮影)

 この辺りには、江戸時代の上水道「神田上水(かんだじょうすい)」のための堰がありました。神田川の水をせき止め、江戸の町で使う上水道の水をこの場所で得ていました。
 そして残りの水が川に流れ落ちて、滝になっていたのです。
 江戸で滝が見られるという珍しい風景が錦絵にも描かれました。
 崖の上には目白不動尊が、崖の下には崖があり、滝と目白不動尊がセットになって観光名所であったことを錦絵が示していました。

そして、風光明媚なよい場所だということで好んでこの場所に住む人たちが現れました。

Q4.風光明媚なよい場所として、目白不動尊の近くに住むようになったのはどのような人たちだったでしょうか?
A4.大名

 目白不動尊の西側には、「黒田豊前守」「細川越中守」「小笠原信濃守」「大岡主膳正」などの大名屋敷が並びました。一番良いところに大名たちが住むようになったのです。
 その辺りが良いところという評判が立ち、大名屋敷が開発されて行きました。
 大名屋敷が立ち並んだことで、さらに目白のブランド力が高まっていったのです。

 ということで大名屋敷があった場所を見るために、ふたたび崖の上に向かいます。

 江戸時代の久留里藩、黒田家の下屋敷があった場所ですが、今は「ホテル椿山荘」が建っています。

ホテル椿山荘東京(筆者撮影) 画像引用元:ウィキペディア

 ホテル内の庭園へと向います。
 霧が立ち上る庭園で、1時間に2回、雲海ができる仕掛けになっています。

霧が立ち上る庭園(筆者撮影)

 この庭園でも、大名がここに屋敷を構えたくなった理由がわかるのです。
 地形を見ると、谷が深く入り組んでいます。

Q5.崖の斜面に庭園を造るメリットとは何でしょうか?
A5.湧き水を使って池をつくることができたこと。

 谷が急に切り込んでいることから、どこかから湧き水が出てきていましたので、ふさぐ場所をつくれば池をつくることができたのです。
 そして明治時代になると、この場所は、内務大臣や総理大臣を務めた山縣有朋(やまがたありとも)の邸宅になりました。

山縣有朋 画像引用元:ウィキペディア

 現在の庭園は庭園好きと言われる山縣有朋が明治時代につくったものが原型になっています。
 山縣邸では、政財界の重鎮が集まり、国政を動かすような重要な会議が開かれていました。

 崖の地形と湧き水を生かした美しい庭園が目白のイメージをさらに高めて行ったのです。

 目白ブランドを生み出した目白崖線の全貌をホテルの上から見ることができます。
 ホテルの最上階から見ると、大都会の真ん中に急な崖が続いている様子がよく見えます。そこからは、新宿、池袋も見渡せます。
 神田川が流れ、その奥に今はビルが連なっていますが、かつては早稲田の村や田んぼがよく見えたと言われています。
 
 明治時代には、この目白の崖沿いに山縣有朋だけでなく、政府の要人や実業家などの邸宅が並ぶようになりました。

Q6.昭和に入ると、ある総理大臣がこの地に邸宅を構えました。「日本列島改造論」を掲げ、外交では「日中共同声明」を発表し、中国との国交を正常化させたことで知られるこの総理大臣とは誰でしょうか?
A6.田中角栄(たなかかくえい)

田中角栄 画像引用元:ウィキペディア

 田中角栄も目白ブランドにあやかってお屋敷をつくった一人だったのです。

 ここまでは目白エリアの東側を見てきましたが、エリアの西側が目白ブランドを確立していくのは明治に入ってからのことです。
 この西側エリアにあるものといえば、何といっても学習院です。
 では、なぜ学習院が目白にあるのでしょうか?

 再び目白駅前に戻って、目白ブランドのイメージを定着させたともいえる学習院が、なぜ目白にあるのかを探っていきましょう。

 目白駅近くの西門(にしもん)から、学習院大学のキャンパスの中へと入っていきます。

学習院大学西門(筆者撮影)

 学習院はどういういきさつでできた大学なのでしょうか?
 もともと江戸時代の終わりに、京都御所の隣に公家の教育機関としてできた学問所(がくもんじょ:学問を授けるために設けられた教育施設。現在の学校にあたります)が始まりでした。そのときに「学習院」と名付けられています。
 その後、明治時代になると当時の貴族階級・華族のための学校が東京につくられ、「学習院」の名前が引き継がれました。

 ところで、西門に入ってから、しばらく校舎が出てきません。
 実は学習院の正門は駅から300m以上も離れたところにあります。西門は、もともとはなくて、できたのは1960年代のことです。
 今は学習院大学には、およそ9000人の学生がいますが、戦前までは主に華族の子弟が通う学校で、学生数は全体で500人くらいでした。
 また、大正時代まで学習院はなんと全寮制でした。学生はみな構内に寝泊まりしていましたので、今のように目白駅から学生が通うのではなかったため、西門がなくても不便を感じなかったのです。

 実はキャンパス内には100年以上前の寮の建物がそのまま残っています。
 その建物は、ある限定された人たちのための寮でした。その人たちとは皇族の方々です。

Q7.下の画像が今もキャンパス内に残る学習院大学の旧皇族寮の建物です。この建物に皇族のためのある配慮が施されていることが、画像を見るとわかります。その配慮とは何でしょうか?

学習院東別館(旧皇族寮) 画像引用元:豊島区公式HP

A7.馬車を玄関に寄せるためにひさしを高くしてある。

学習院東別館(旧皇族寮) 画像引用元:豊島区公式HP
※黄色矢印がひさしの高さです。

 大正初め頃、秩父宮雍仁(やすひと)親王の登校風景の写真がありますが、その写真を見てもひさしが高くつくられてることで、馬車が玄関に寄せやすくなっていることがわかります。
 秩父宮雍仁親王は昭和天皇の弟にあたる方で、御所で暮らしていましたが、登校時に寮に立ち寄っていました。
 寮のひさしは馬車を寄せるために高めにつくられたのです。

 それでは、学習院はなぜ目白にやってきたのでしょうか?
 目白の前は四谷にキャンパスがあったのですが、明治27年の地震で被害を受けたため、移転することになりました。

Q8.四谷からの移転先として、目白が選ばれた理由とは何でしょうか?ヒントとして、当時の学習院は、軍人も含めて国のために働く人材を厳しく教育しようとしていて、かなりスパルタな教育方針だったことがあります。
A8.都心から離れ過ぎず、繁華街からは遠いところにあったため。

 移転先として、富士山のふもとや小田原が候補に挙がっていましたが、さすがに遠すぎて学生の親から反発を受けたためなしになりました。
 学習院が移ってくる前の都心の地図を見ると、家が建っている都会と比べて、今の学習院がある辺りは家がまばらで、地図には「竹」「杉」「茶」といった表記が多く見られます。
 この辺りの東側には屋敷が並んでいましたが、この辺りは明治時代になっても、まだ「ひなびた土地」だったのです。
 片田舎だったとはいえ、都心からは離れ過ぎていない場所だったことで、移転先として決まりました。

 こうして明治41年(1908年)に学習院のキャンパスが移転して、新たな目白ブランドが誕生しました。

1915年当時の学習院本館 画像引用元:ウィキペディア

 江戸時代にできた目白不動尊からはじまり、目白ブランドは徐々に西に広がって行ったのです。

 ここからは、西側で学習院から少し離れたエリアで、目白ブランドを確立したものがわかる場所へと向かいます。
 
 向かったのは目白駅の西側のエリアです。
 住所は新宿区の下落合ですが、やはりマンションには目白の名前が見られます。
 そんな高級住宅街の道のど真ん中に大木があります。この木が、このエリアに目白ブランドが生まれたヒントになります。

 

道の真ん中に立つ大木(筆者撮影)

 わざわざ木をよけるように道路が通されています。
 それは、この場所に車寄せの跡があったことを示しています。
 明治後期の頃の地図を見ると、そこに「近衛邸」との表記があります。
 ここに邸宅を構えたのは、近衛篤麿(あつまろ)という人物です。

近衛篤麿 画像引用元:ウィキペディア

 近衛家は平安時代の藤原家直系の一族で、1000年にわたり天皇家を支えてきました。学習院の院長を務めていた近衛篤麿は、学習院のすぐ近くに大邸宅を建てたのです。その敷地面積は学習院の半分くらいにもなります。
 大正時代に、近衛家のあった土地は高額で分譲され、目白が高級住宅街になる先駆けとなりました。
 このエリアの目白ブランドの正体がここにあります。

 そこから少し先に、変わったかたちの建物があります。
 この建物もまた目白ブランドの象徴と言えるのです。
 
 今は「日立目白クラブ」として、レストランや結婚式場として活用される、企業の福利厚生施設となっていますが、もともとは学習院のある施設でした。

日立目白クラブ(筆者撮影)
※中央に煙突が立っています。

Q9.現在の「日立目白クラブ」はかつて学習院の何の施設だったでしょうか?ヒントは煙突が立っていることです。
A9.

 煙突が立っているということは、ここで料理がされていたということ…この建物は寮だったのです。
 昭和の初めに建てられた学習院の寮、その名も「昭和寮」。当時最先端のスペイン風の建築様式が採用され、およそ50人の学生が生活していました。
 なんと当時からバーカウンターもありました!
 今では目白ブランドを感じさせるシンボルになっています。

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