No.1314 『ブラタモリクイズ!京都・東寺~東寺は京都のシンボル!?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は5月13日に放送された京都・東寺編です。

 JR京都駅から程近い場所にある東寺(とうじ)。五重塔で有名な東寺は創建された平安時代から現代に至るまで「京都のシンボル」であり続けています。東寺や五重塔に深く関わってきた歴史上の人物とは?京都には東寺だけでなく西寺もあった?東寺が現在も残されている理由となった地形的な特徴とは?東寺を京都のシンボルにさせた秀吉による壮大な都市計画とは?時代ごとに起こる様々な出来事を通して東寺が背負ってきた歴史的な運命を探って行きましょう。

Q1.東寺は平安時代に建てられましたが、京都に平安京ができたのは何年ですか?
A1.794年

東寺:画像引用元:ウィキペディア

 東寺は平安京が京都に遷都されてからわずか2年後の796年に創建されたと伝わっています。東寺は平安京の中で最も古い寺です。

Q2.東寺の礎(いしずえ)を築いた人物で、唐に渡って密教を学び、帰国後に真言宗を広めた人物は誰でしょうか?
A2.空海(くうかい)

空海の肖像:画像引用元:ウィキペディア

 弘法大師・空海は、日本の仏教に大きな影響を与えた人物です。その空海の教えを色濃く残す建物が、講堂(こうどう:お坊さんたちが仏の教えについて学ぶ場所)です。講堂の中には「金剛法菩薩坐像」など21体もの仏像が収められ、そのうち15体が国宝とされています。これらは空海の構想のもと作られたもので、ひとまとまりとして「立体曼荼羅(りったいまんだら)」と呼ばれます。室町時代に大きな火災が東寺を襲いましたが、立体曼荼羅は運び出されて無事でした。1200年もの間、東寺が残り続けた理由のひとつには、空海の存在が大きかったと言われています。

大日如来と阿弥陀如来(手前):画像引用元:ウィキペディア

Q3.東寺は何度かの火災に遭い、五重塔も焼失したことがありました。現在の五重塔は徳川家3代将軍によって再建されたものです。この将軍は誰でしょうか?
A3.徳川家光

五重塔(国宝):画像引用元:ウィキペディア

 もともとは平安時代に建てられた五重塔ですが、何度か火災に遭い、現在の五重塔は5代目で、江戸時代に徳川3代将軍・家光の寄進(きしん:寺社に金銭や物品を寄附すること)によって再建されたものです。五重塔は高さ約55mで、日本で最も高い木造建築です。

Q4.五重塔は東寺の端の位置に建てられています。なぜ中央ではなく、端に建てられていたのでしょうか?
A4.平安京の西側にあった西寺(さいじ)と対称の位置になるように建てられたため。

 五重塔は東寺の端に建てられていて、入口の南大門から入ってもすぐに視界に入りません。五重塔が端に位置している理由には、平安京にあった「もうひとつの寺」が大きく関係しています。平安京のまん中には朱雀大路(すざくおおじ)という大通りがあり、朱雀大路をはさんで東寺と対称の位置に西寺という寺がありました。平安京が建てられた時には、平安京の寺は東寺と西寺の2つのみでした。かつて西寺があった場所に、現在は公園があり、そこに西寺の講堂があったことを示す史蹟が残されています。この講堂がちょうど東寺の講堂からまっすぐ西に進んだところにあり、東寺と対称の位置に西寺があったことがわかります。西寺にも塔があり、五重塔と朱雀大路をはさんで対称の位置にあったのです。
 当時の人々が平安京に向って南から上がって行くと、まず東寺と西寺の塔が左右対称に見えてきます。平安京の正面玄関にあたる「羅城門(らじょうもん)」の左右に目立つように五重塔を配置することで、訪れる人々に朝廷の権利を見せつける目的があったとされています。この時代に東寺と西寺が2つセットで都の入口のシンボルとなっていました。

平安京復元模型の西寺(平安京創生館):画像引用元:ウィキペディア

 西寺の跡地である公園には今も朱色の瓦が残っています。この瓦がその場所で火災にあったことを示しています。東寺は火災に遭って焼けたことがあっても復元されましたが、なぜ西寺は復元されなかったのでしょうか。そこにはある地形が深く関係しているのです。

Q5.平安京の東側と西側の違いとして、川によって作られる地形が関係しています。川の堆積作用によって、川が山間部から平地や盆地に移るところで作られる地形とは何でしょうか?
A5.扇状地(せんじょうち)

 西寺の地域には、古くから「汁田(しるた)」と呼ばれた湿地帯があり、現在でも主に京野菜のセリが作られています。この地域が水の多い場所であることがわかりますが、そのことと扇状地がどのように関係しているのでしょうか。
 扇状地とは、山間部を流れてきた川が広く平坦な場所に出てきた時に、流れが弱まることで運ばれてきた土砂が扇(おうぎ)状に堆積してできた地形のことを言います。平安京の西側には桂川、東側には鴨川という川があり、東寺のある平安京の東側はもともと鴨川が作った扇状地でした。扇状地には水がしみ込みやすく、また扇状地の端では水が湧き出してしまいます。鴨川が作った扇状地のおかげで平安京の東側は西側より標高が高く、安定した土地になり、一方の西側は、鴨川の扇状地の端に位置するため、水が湧き出してしまう場所となりました。
 一方、平安京の西側を流れる桂川は、京都盆地に入ってくる前に亀岡盆地という盆地を流れるため、そこで土砂がせきとめられてしまうことで、扇状地を作ることができなかったのです。桂川が扇状地を作らなかったことで、平安京の西側は標高が低く、不安定な土地となってしまいました。また、土地が低く平坦なため、川は蛇行してしまい、大雨が降ると氾濫することがありました。
 こうした水の影響を受ける住みづらさから、鎌倉時代になると人々は西側を避けて東側に住むことを選び、結果として都の中心が東側にずれていったのです。
 それに加えて平安時代の中頃から朝廷の財政が厳しくなったことで、西寺は再建されることなく姿を消してしまいました。
 一方の東寺は京都のシンボルとして、その存在感をより高めて行きました。地形の影響によって東西2つの寺の運命が分かれてしまったのです。

 そしてその後も、東寺は京都のシンボルとしての存在感をますます高めて行きます。

Q6.東寺の前を通る道、「九条通」が曲がっているのはなぜでしょうか?
A6.神戸と京都をつなぐ西国街道につながっていたため。

 平安京の道路は東西南北にまっすぐな道で、もともと九条通りも九条大路(くじょうおおじ)と呼ばれる、まっすぐな道でした。九条通が曲がった理由は、九州北部や下関、そして神戸を経て、南西から京都に至る「西国街道(さいごくかいどう)」という街道とつながるためだったのです。
 西寺が無くなってからは、西から京都を訪れる人々は東寺の五重塔を目印としました。鎌倉時代が終わって室町時代になると、西国街道に人や物の流れがますます増えて行きます。
 平安京ができた頃、人々は都の入口の羅城門を通って中心部に向かっていましたが、平安時代の中頃に羅城門が無くなり、鎌倉時代の初めに西寺も無くなると、都の中心が東側にずれて行き、西から来た人々が五重塔を目印に東寺にまで向かい、そこから東寺の東側を通る大宮通という道を通って、都の中心部に向かうルートが使われるようになりました。
 九条通は西国から終着点の東寺を目指すように、西国街道につながるかたちで曲がって行ったのです。東寺の五重塔はその1塔のみで都の入口を象徴する役割を担っていたということになります。

 安土桃山時代に東寺が京都のシンボルであった痕跡が見られる場所があります。

Q7.東寺から西に250mほどの場所に、中央が高くなっている「かまぼこ」のような道があるのはなぜでしょうか?
A7.土塁(どるい)が作られたため。

御土居の位置:画像引用元:ウィキペディア
※最南端が東寺です。

 1591年に豊臣秀吉は都を囲む御土居(おどい)を築きました。御土居とは台形の土塁と堀からなります。秀吉は、平安京ができてから800年が経って曖昧になっていた都の範囲を明確に区切るために御土居を築きました。御土居には外敵の襲来や、鴨川の氾濫から都を守る目的もあったと言われています。
 御土居によって、京都は洛中と洛外、都の中と外とに明確に分けられました。東寺は御土居の内側の最南端に位置しています。東寺の部分だけ南に突き出していることから、洛外にもすることができた東寺を秀吉があえて内側に入れたと考えられます。秀吉は東寺を御土居の中に取り込み、明確に東寺が京都の入口であると定めたのです。秀吉が東寺のすぐ近くに「東寺口」という入口を作ったことで、東寺はまさに京都の入口のシンボルとなりました。

Q8.東寺の入口である南大門が江戸時代に羅城門と呼ばれることがあったのははなぜでしょうか?
A8.都の入口である羅城門の名前を残したいという京都の人々の想いがあったため。

 御土居による堀には池になっている部分があります。かつて羅城門があった場所が池となったことで平安時代に無くなった羅城門は、その跡さえも無くなってしまいました。現在の発掘調査でも羅城門の痕跡は一切確認されず、石碑として残されているのみです。
 ところが江戸時代の絵図には、東寺の南大門を羅城門とする記録が残されています。当時の京都の人々の「平安京の入口であった羅城門の名前を何とか残したい」という想いから、残された東寺の入口の南大門が羅城門と呼ばれるようになったのです。
 こうして当時は誰もが認める京都のシンボルとなりました。

Q9.東寺が現在も京都のシンボルであり続けられるのは、明治時代にあるものが生まれたからです。そのあるものとは何でしょうか?
A9.鉄道

 明治時代になって鉄道が通り、京都駅が東寺のすぐそばにできました。現代の京都の玄関口である京都駅から程ない距離にある東寺は、まさに京都のシンボルとなっています。

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