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今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は6月17日に放送された奈良・吉野編です。
奈良県のほぼ中央に位置する吉野町。町の南側のそびえる吉野山は桜の名所として有名で、春になると山肌一面が桜色に染まります。桜の咲く時期には40万人の観光客が訪れる吉野ですが、なぜ「桜と言えば吉野」と言われるようになったのでしょうか。吉野山に多くの桜を咲かせる岩石の正体とは?日当たりのよくない「北向き」に桜が多い理由とは?吉野の桜を世の中に広めた当代一の歌人が詠んだ歌とは?吉野山で開かれた「秀吉の花見」は盛大な仮装大会だった?秀吉が吉野で花見を開いた真の理由とは?「桜といえば吉野」と呼ばれる奈良・吉野の歴史的・地理的特徴を探って行きましょう!
吉野町の位置
吉野山には山全体で約3万本もの桜の木があると言われています。東京の上野、京都の嵐山、東京の隅田川沿いといった全国の桜の名所は、吉野の桜が移植されたことから始まったもので、吉野が桜の名所のルーツとされています。
春の吉野山 画像引用元:ウィキペディア
吉野山の中腹に大きなお寺があります。このお寺に吉野の桜の原点が隠されています。
金峯山寺の本堂「蔵王堂」 画像引用元:ウィキペディア
「金峯山寺(きんぷせんじ)」というそのお寺の本堂、「蔵王堂」は国宝で世界遺産にも登録されています。1300年前に創建された金峯山寺は、古くから伝わる日本独自の宗教である「修験道(しゅげんどう)」の根本道場(信仰の中心地、本山)です。修験道とは、山岳信仰に仏教や神道が結びついた日本独自の宗教のことで、修験道の修行者のことを、山に伏して修行する姿から「山伏」と呼びます。金峯山寺を拠点に、山伏たちは今も修行を続けています。
Q1.金峯山寺のご本尊と桜の木とは深い関係があります。その関係とは何でしょうか?
A1.金峯山寺を開山した人物がご本尊を桜の木に彫刻した。
金峯山寺本尊蔵王権現の立像 画像引用元:ウィキペディア
金峯山寺のご本尊は、「金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)」です。1300年前に金峯山寺を開山した役行者(えんのぎょうじゃ)という人物が、吉野山で修行をしていた際、悟りを開いたその瞬間に、目の前に蔵王権現が現れ、その尊い姿を桜の木に彫刻したと言われています。
蔵王権現像は何度か火災に遭いました。蔵王堂が再現されたのと同じときに建立されているので、現存する像はつくられて430年ほどが経ちます。
役行者は、なぜ桜の木を使ったのでしょうか?その理由には諸説ありますが、「サクラ」という名前の由来が「早苗(稲の神)」のサ、「座(くら:座まします)」のクラであるとして、桜が神さまの宿る木と考えられたためと言われています。
桜は蔵王権現をうつし取った神聖な木として、吉野山では特別に大切にされてきたのです。
役行者像(キンベル美術館) 画像引用元:ウィキペディア
Q2.吉野山に今もたくさんの桜の木がある理由とは何でしょうか?ヒントは、「お供え」です。
A2.吉野の人々が献木(けんぼく)をしたため。
献木とは、お供えとして苗木を植えることです。蔵王権現様にご神木の桜をお供えして、安全で健康な生活を営めるように、社会が安定するようにと祈りを込めて献木がされたことで吉野山に桜がたくさん見られるようになりました。
桜の苗木をお供えする献木が始まったのは平安時代で、特に江戸時代に盛んに行われたと言われています。多くの人々の祈りを受け止めて、吉野山にたくさんの桜が咲くようになったのです。
金峯山寺から山を1㎞ほど登ったところにある「滝桜」と呼ばれる場所では、吉野山自体にある秘密に迫ることができます。
吉野山は、桜の種類の中でも「ヤマザクラ」が日本一たくさん咲いている場所です。吉野山を彩るヤマザクラは古くから日本に自生する野生種(自然のままに存在して、人口交配されていない種)なのです。
吉野山でヤマザクラが多く自生する理由を、ある岩石に見ることができます。その岩石とは片岩(へんがん)。片岩は地下深くに沈み込んだ岩石が圧力を受けてできたもので、層状になっているのが特徴です。
緑泥石片岩 画像引用元:ウィキペディア
Q3.層状になっている片岩が、なぜヤマザクラの自生に向いていたのでしょうか?
A3.保水性に優れていたため。
片岩は風化すると層が緩んですき間ができます。そのすき間に雨などの水分がたまり、植物はこのすき間に根を伸ばして、水分を得ることができるのです。
吉野山はほとんどが片岩でできています。吉野山ではヤマザクラ以外の植物にも、保水性がある片岩のすき間から延びている木が見られます。
「桜といえば吉野」となった理由に、吉野山の片岩以外の要素があります。それは「日当たり」です。
Q4.吉野山の桜の分布図を見ると、山の「北斜面(北向きの斜面)」に多く桜が植えられていることがわかります。南斜面の方が日当たりがよいはずなのに、北斜面に桜の木が多いのはなぜでしょうか?ヒントは「夏」です。
A4.南斜面では日当たりが良すぎて、土壌が乾燥してしまうため。
吉野山で北斜面の方に桜が多く分布するのは、北向きの方が保水性が良いためです。
吉野山の土壌は乾燥しやすい性質で、南向き斜面では夏のように日当たりが良すぎるときにカラカラになってしまいます。ヤマザクラを育てるには適度な水分が必要なため、水分が多く保たれる北向き斜面の方が向いていたのです。草刈りをすれば日光はある程度確保できるため、「日当たり」よりも「水」が優先されました。
吉野山の北向き斜面が桜に合っていたことには、さらによい効果がありました。北から南に参道を上り、金峯山寺を参拝する人達を桜が出迎えるかたちができたのです。
山の北斜面の桜が参拝客を出迎える図
こうして「桜といえば吉野」というイメージが出来上がって行きました。
たくさんの人が吉野の桜を見るようになって集まってくると、そこにあるものが生まれます。人々が休息をとる茶店・茶屋ができ、宿泊するための宿ができて、やがて「町」ができるようになりました。
金峯山寺の門前町に並ぶお店の建物には、吉野ならではの独特な建築様式が見られます。
Q5.平地が少ない吉野では、斜面に谷を背にして家屋を建てることが多くありますが、ここでどのような建築上の工夫が見られるでしょうか。ヒントは表と裏で違いがあることです。
A5.家の裏が急な谷になっているため、家屋を下方へ2階、3階としている。
吉野建 画像引用元:文化庁 日本遺産ポータルサイト
実際にお店を通り沿いの表から見ると平屋(1階建て)ですが、裏に周って見ると実は3階建てになっています。表からは建物の3階部分を見ていたのです。道に面する1階は、商業空間などの公的な用途として、地下の階は家族の生活空間として利用されることが多いです。
このように、せまい尾根をいっぱいいっぱい道にして、建物はすべて谷側を背に、建物の一番上だけをそろえるという構造を「吉野建(よしのだて)」と言います。この建築様式が、吉野の独特な景観を生み出しているのです。
今もたくさんの人が集まる吉野ですが、そのきっかけを作ったある著名な歌人がいます。
Q6.平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した僧侶にして歌人で、その歌を集めた『山家集(さんかしゅう)』でも知られる人物とは誰でしょうか?
A6.西行(さいぎょう)
西行像(MOA美術館蔵) 画像引用元:ウィキペディア
西行は23歳で出家し、僧侶として日本各地を周って修行する中、吉野に3年間滞在しました。そこで 西行は、吉野の桜の歌を多数つくりました。西行は僧侶でもあり、当代一の歌人でもあったのです。
吉野の桜についての歌では、「吉野山 こぞのしほりの 道かへて まだ見ぬ方の 花を尋ねん」や、「このもとに 旅寝をすれば 吉野山 花の衾(ふすま)を 着する春風」があります。前者は、「去年の道と異なる道を行って、まだ見たことのない花を見に行こう。」という意味で、それほどまでに吉野にはたくさんの桜がある、ということを伝えるものでした。後者は「旅をしてきたが、吉野山で寝ていたら、春風が吹いてきて、布団のように桜の花びらを着せてくれた。」という意味になります。
そして最も有名な歌が、「ねがわくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」です。「どうせ亡くなるならば、春の2月の満月の頃に花の下で亡くなろう」という意味なのですが、如月(旧暦の2月)の望月(満月)の頃とは、お釈迦様が亡くなった2月15日頃を指します。そして実際にこの歌を詠んだ翌年の2月16日に、西行は亡くなっています。
西行が歌にしたことで吉野の桜は日本中に知られることになりました。そんな西行は、今で言う「インフルエンサー」だったのです。西行の歌はその後多くの人の手本になり、読み継がれて行きました。
次に門前町にある神社に向います。
吉水(よしみず)神社という神社は、金峯山寺の偉いお坊さんが暮らしていた宿坊(しゅくぼう)でした。この吉水神社から見る吉野の桜が今も昔も一番人気で、その絶景は一目で千本もの桜が見えるという意味で「一目千本」と呼ばれています。
吉水神社の拝殿 画像引用元:ウィキペディア
安土桃山時代にこの場所で行われた前代未聞の大イベントが、「桜といえば吉野」のイメージを決定的なものにしました。
Q7.1590年に天下を統一した豊臣秀吉は、その4年後に吉野で盛大な花見を催しましたが、この花見に参加した武将の一人で、仙台藩の初代藩主となって東北の繁栄を築いた人物とは誰でしょうか?
A7.伊達政宗(だてまさむね)
伊達政宗騎馬像 画像引用元:ウィキペディア
政治・軍事面で高名な伊達政宗は、時代を代表する文化人でもありました。政宗が創り上げた豪華絢爛で斬新な文化は、仙台から全国へと広まって行ったと伝えられています。
伊達政宗や徳川家康といった有名な大名たちが多数参加した「秀吉の花見」は、吉野山を借り切って催され、およそ5000人が参加し、5日間にもわたって行われるという大イベントでした。
この花見の変わった趣向として、参加する大名たちにある条件が課せられました。
当時の様子を描いた絵図には、赤いマントを羽織ったり、奇妙な帽子をかぶったりと、様々に「仮装」した武将たちの姿が見られます。実は仮装をすることが参加するための条件だったのです。
ちなみに伊達政宗は吉野にゆかりの山伏の格好をして参加したと言われています。
花見では仮装大会の他にも、幕を張って踊りの会が催された他、能の会や歌の会、お茶の会など、それぞれの場所で色々な催しが行われました。
山を貸し切ってあらゆるアミューズメントが催され、参加者には仮装もさせる。「桜を愛する心は誰も同じ。身分の上下なく皆で心から花見を楽しむ」という意味で、当時としては革命的な花見でした。
それでは、秀吉は花見をする場所になぜ吉野を選んだのでしょうか?
その理由は、吉水神社の「書院」で見ることができます。
吉水神社の書院 画像引用元:ウィキペディア
Q8.吉水神社の書院には源義経・潜居(せんきょ:ひそかに隠れ住むこと)の間(部屋)、「南朝皇居」と記された書が飾ってある間があります。これらの間があることから考えられる、秀吉がこの場所で花見を開いた狙いとは何だったでしょうか?
A8.過去の偉人たちがいた場所を自分の思うように使うことで、自分の権威をアピールしようとした。
秀吉が吉野を花見の場所に選んだのは、ただ単に桜が綺麗に見えるためだけではありませんでした。
吉水神社の書院には、義経が潜居した間の近くに、「弁慶思案の間」という部屋もあります。鎌倉時代に兄・頼朝と対立した義経が追手から逃れるため、弁慶とここに滞在したと伝えられています。
また「南朝皇居」と書かれた部屋があることから、室町時代に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が吉野に移り住み、この場所で京都に対抗する「南朝」を開いたことがわかります。
つまりこの書院は、過去の偉人たちがこぞって滞在した建物なのです。
秀吉がこの場所を花見の開催地に選んだのは、過去の偉人がいた場所を自分の思うように使うことで、自分の権威をアピールしようとする目的があったためと伝えられています。
後醍醐天皇像 画像引用元:ウィキペディア
現在、3万本もの桜を一年通して世話しているのは3人の「桜守(さくらもり)」と呼ばれる人達です。
ヤマザクラの寿命は、およそ70年から100年なのですが、それが1300年もの間咲き続けているのは、 新たに植樹をしてきたからです。
苗を育て、寿命で枯れたり、台風で倒木した場所に新たに植樹をしてきました。新たな植樹は、多い年で年間50本にもなります。その1本を植えるためには4、5年の時間がかかることからも、3万本もの桜の木を維持するのは大変なことです。
「桜といえば吉野」と言われるようになったのは、1300年もの間、桜を愛し、絶やさず守り伝えてきた吉野山の人々がいたからこそなのです。
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