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今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は6月24日に放送された関ケ原の戦い編です。
岐阜県の関ケ原町は、徳川家康が率いる東軍と、石田三成が率いる西軍が激突した「関ケ原の戦い」の舞台となった場所です。戦いに勝利した徳川家康によって、それまでの戦乱の時代は終わり、天下太平の江戸時代が始まりました。この天下分け目の戦いに、実は関ケ原の地形が大きく影響していたのです。兵力で劣る西軍が敵軍を押しとどめた秘策とは?「関東・関西」の語源ともなった重要施設の正体とは?黒田長政の奇襲作戦を成功させた関ケ原ならではの地形とは?勝敗を分けた「裏切り」を生み出したのも地形だった?天下を分けた合戦の舞台となった関ケ原の地形の秘密を探って行きましょう!
関ケ原町の位置
関ケ原の戦いに臨む徳川家康が率いる東軍の兵力はおよそ74,000人、石田三成が率いる西軍の兵力はおよそ82,000人と、兵力自体は五分五分でした。もともと関ケ原の地形は、両側に山が迫った直径3㎞ほどの盆地で、西から東に向かって低くなっています。その一番高い所に陣を置いたのは西軍の大将、石田三成、一方の家康が最初に陣を置いたのは、より東方の名古屋よりの場所でした。午前8時に開戦した時の両軍の配置を見ると、見通しの利く高い位置を陣取った西軍の方が断然有利だったのです。
ところが戦いが始まってわずか6時間、東軍の勝利という結末になったのです。この戦いのターニングポイントに関ケ原の地形が深く関わっていたのでした。
関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)関ケ原町歴史民俗資料館 画像引用元:ウィキペディア
まずは、関ケ原の盆地の真ん中にある町に向かいます。
街並みには歴史を感じさせる雰囲気が今も残っています。そこを通る道は昔の関ケ原のメインストリートでした。
関ケ原町の中心部 画像引用元:ウィキペディア
Q1.関ケ原の町を通る道沿いに、1000年も前から続く旅館が今も残っています。このことから、この町はかつてどのような場所であったことがわかるでしょうか?
A1.宿場町(しゅくばまち)だった。
宿場とは、主な街道に2、3里ごとに置かれた施設で、大名が宿泊・休憩する本陣、庶民が宿泊するための旅籠(はたご)などがありました。宿場町とは、街道沿いの宿場を中心に作られた町のことです。
関ケ原町を通るメインストリートはもともと「東山道(とうさんどう)」と呼ばれていて、都と東日本をつなぐ重要な街道でした。
東山道の範囲と概略の経路 画像引用元:ウィキペディア
さらに古地図を見ると、関ケ原町の周辺で東山道から2本の道が延びていることがわかります。ひとつの道は分岐点から南へと延びる「伊勢街道」で伊勢へとつながり、もうひとつの道は分岐点から金沢方面へとつながる「北国街道」でした。
Q2.東山道の関ケ原周辺で「伊勢街道」と「北国街道」が延びていることから、関ケ原がどのような場所だったと考えられるでしょうか?
A2.交通の要衝(ようしょう)だった。
要衝とは、交通・軍事・商業上の重要な場所のことです。関ケ原は、近畿地方と東海地方や東国を結ぶ交通の要衝だったのです。
関ケ原は南北に険しい山がある盆地だったため、東西をつなぐ道は関ケ原しかありませんでした。そのため、徳川家康が率いる東軍が西に攻め入るには関ケ原を通るのが最短ルートだったのです。
逆に西軍の総大将、石田三成にとって関ケ原は、何としても死守しなければならない場所でした。東軍に関ヶ原を突破されてしまうと、西軍の拠点である琵琶湖や京都、大阪まで一気に攻め込まれてしまうためです。
そこで、三成は東軍を食い止めるための策を練ります。
まず三成は、東山道を西へと攻める東軍を食い止める大事な任務を、大谷吉継(よしつぐ)という人物に託します。吉継は幼い頃から三成と共に豊臣秀吉に仕えていた、三成の親友と言える人物でした。実は 吉継は三成に、家康との対峙を避けるべく提言していましたが、結局は決意の固い三成の味方となって戦いに参加したのです。
『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』落合芳幾画 画像引用元:ウィキペディア
※「吉隆」とは大谷吉継のことです。
午前8時に始まった「関ケ原の戦い」の序盤の鍵を握ったのは、この大谷吉継が率いる大谷隊でした。重要任務を託された大谷隊は、地形を巧みに利用して、東山道を西へ進む東軍と戦います。
その激闘の地へと向かいます。
向かったのは東山道をさらに西へ向かった先です。急な坂を下ると、川が東山道を断ち切るように流れています。
決戦時、東軍の兵力はおよそ5,500人、それに対する大谷率いる西軍はおよそ3000人でした。
Q3.数で劣る大谷隊は川を利用して東軍を迎え撃ちます。その方法とはどのようなものだったでしょうか?ヒントは橋です。
A3.敵を橋に集中させた。
東山道を進む東軍に、これより西に攻め入れられたくない西軍にとっては、川は「天然の堀」でした。その川にかかる橋に、吉継は敵を集中させて一挙に攻めたのです。東軍は攻めようにも、一度に橋を渡れる人数は限られてしまいます。どんなに軍勢が多くても橋を渡る人数が限られてしまっては、数的優位を活かすことができません。橋の西側で待ち構えた大谷隊は、川という地形を利用して数の劣勢を見事にカバーしたのでした。
この大谷隊が利用した橋がかかった辺りは古くから重要な場所でした。
Q4.橋の辺りには、街道沿いにおかれるある重要な施設が置かれていました。その施設とは何でしょうか?
A4.関所
関ケ原の戦いのおよそ1000年前、壬申の乱の翌年の673年に天武天皇の命によってこの地に設置されたのが、「不破関(ふわのせき)」という関所です。同じ時期に設置された東海道の鈴鹿関(すずかのせき)、北陸道の愛発関(あらちのせき)と合わせて「三関(さんげん/さんかん)」と呼ばれています。
実はもともとこの場所は、東から来る敵に備えた防衛拠点だったのです。
ちなみに関所ができて以降に、関所の西側と東側とを表す「関西・関東」という言葉が生まれたと言われています。
三関のおよその位置 画像引用元:ウィキペディア
続いて、川の近くに進みます。西軍は川だけでなく、関所の「あるもの」を使って戦ったと言われています。
川の近くには土塁の跡が残っています。西軍はこの土塁をひとつの防御拠点としたと考えられるのですが、実は土塁は関ケ原の戦いが起こる前にすでにあったのです。
Q5.関所の近くに土塁がつくられた目的とは何だったでしょうか?
A5.東山道を行き交う人々が関所しか通れないようにするため。
土塁は関所を囲むように設置されました。今から1400年前、東山道を通る人々が関所しか通れないように誘導するため、関所の周りを土塁で囲んだのです。
自然の地形だけでなく、1000年も前に作られた土塁を巧みに利用した西軍は、東軍の主力部隊を400mも押し戻したという記録が残っています。
地形を利用して各地での戦いを有利に進めた西軍でしたが、一方の東軍も局面を大きく変える大逆転劇をやってのけました。
石田三成の陣の近く。ここでも序盤は西軍が優勢に進めていました。
その中心にいたのが、武芸の達人として知られ、三成の右腕だった島左近(しまさこん)です。はじめは三成の陣近くで戦っていた島左近でしたが、徐々に前へと進み出ます。押し気味だった左近ですが、東軍の鉄砲隊に奇襲攻撃されてしまいます。
品之左近朝行(=島左近)落合芳幾作 画像引用元:ウィキペディア
奇襲を仕掛けた東軍の鉄砲隊を率いていたのが黒田長政(くろだながまさ)でした。長政は、「軍師官兵衛」で知られる黒田官兵衛(かんべえ)の息子です。
もともと長政が陣を置いた場所は、島左近の陣からは良く見える場所でした。そこから奇襲作戦を成功させた長政は、地形を巧みに利用したのです。
およそ1㎞離れた黒田の陣の跡へと向かいます。陣の近くでは尾根が出っ張っているため、移動すると島左近からは見えなくなります。黒田隊が通った道は、尾根の陰となり、気づかれることなく移動できたのです。
島左近の側から見ると一続きの山ですが、歩いてみると、別の小山があります。
鉄砲隊にとって隠れやすい道の成り立ちをひもとくと、そこに小山があることがポイントとなります。
Q6.島左近の側から見えないところにある小山はどうやってできたのでしょうか?
A6.断層によってできた。
この辺りには「関ヶ原断層」が走っています。断層によって尾根が分断されたような形になっていたのです。
黒田隊が通った道は、断層の上にできた道だったのです。
Q7.断層によって尾根が分断されると、なぜ道ができるのでしょうか?
A7.断層付近の地盤がもろくなり、崩れたため。
断層によって道ができたメカニズム
関ケ原断層によって、黒田長政が率いる隊が通った秘密の道ができたメカニズムは以下の通りです。
1.山裾に通る断層が横ずれを起こし、山の尾根が分断される(上の図のオレンジ矢印)。
2.断層の周辺の地盤がもろくなり崩れる(上の図の茶色の矢印)。
3.そこでできたすき間が道となった(上の図の茶色の線)。
黒田隊は、断層がつくった秘密の道を通って、島左近が気づかぬうちに近くまで詰め寄り、奇襲を仕掛けることができたのです。
東軍も断層という地形を利用して奇襲作戦を成功させ、勝利へと近づきました。
そしてその後、東軍の勝利を決定づけるある動きが起こります。
やって来たのは、東山道の目の前にある小山。
そこから東山道をはさんで向かいの山頂付近に旗が見えます。そこが、西軍・小早川秀秋(こばやかわひであき)の陣のあった場所です。この小早川秀秋の動きが東軍勝利の決め手となりました。
Q8.関ケ原の戦い開戦の前日、小早川秀秋は東西両軍が陣を置いた中で一番高い場所である山頂に陣を取りました。その理由とは何だったでしょうか?
A8.戦況を一望できる場所だったため。
絹本着色小早川秀秋像(高台寺蔵) 画像引用元:ウィキペディア
15000人もの兵力を持ちながら、標高の高い山の頂に陣を置いた小早川秀秋でしたが、しばらくは動きませんでした。
実は戦いの前日、東西両軍の大将である徳川家康と石田三成は、それぞれ小早川秀秋に内密に接触していました。
石田三成からは播磨(はりま:現在の兵庫県神戸市、姫路市などを含む地域)一国を差し上げ、豊臣秀吉の三男である豊臣秀頼が15歳になるまで関白になって頂くとの条件が、一方の徳川家康からは二か国を差し上げる、との条件がそれぞれ提示されました。
東西両軍は、とっておきの褒美を提示して、15000人もの兵力を持つ小早川を味方につけようと必死だったのです。
小早川はすぐには態度を決めずに、軍勢が優勢な方に付こうと、戦況を見ることとします。そのため戦況が一番よく見える所に陣取っていたのです。
そして午前11時ころ、東軍に大きな動きがありました。それまで後方に待機していた徳川家康率いるおよそ30000人の軍が前に出てきたのです。
その動きを見ていた小早川には、もう一つの景色が見えていました。家康を背後から攻めるために、16000人の兵力を持つ西軍の毛利秀元(もうりひでもと)が南宮山(なんぐうざん)に布陣していました。もしもこの軍が動いていたら、家康はひとたまりもなかったでしょう。ところが毛利は動かず、そして毛利が動かないと踏んだからこそ、家康は前に出てきたのです。
小早川秀秋が見ていたのは、東軍の徳川家康が前進した景色と、西軍の毛利隊が動かないという景色でした。
そして開戦から4時間後の正午頃、とうとう小早川秀秋は東軍へと寝返り、それが東軍の勝利の決め手となりました。
もしも関ケ原に全体の戦況を見渡せる都合のよい山がなかったら、小早川秀秋は寝返る決断ができたでしょうか。天下を分けたのは、関ケ原の地形だったと言えるのです。
東軍は一気に優勢となり、小早川秀秋が陣取っていた山のふもとにいた別の西軍の陣営も東軍に寝返りました。
寝返った軍勢と戦ったのは、石田三成の親友・大谷吉継でした。吉継は奮闘して、小早川隊を三度も山のふもとにまで押し戻したと伝えられています。それでも、ふもとにいて東軍に寝返った陣営の攻撃もあり、持ちこたえることができなくなった吉継は、最後は山で自害しました。家康と対峙することを避けるように提言しながらも親友・石田三成と共に戦うこととなった吉継は悲しい最期を迎えたのです。
関ケ原の戦いの大谷吉継陣跡 画像引用元:ウィキペディア
6時間にわたった関ケ原の戦いでしたが、最後は石田三成の陣が東軍の軍勢に一気に攻め落とされ、東軍の勝利で終わりを迎えます。
関ケ原古戦場 画像引用元:ウィキペディア
天下分け目の舞台となった、関ケ原。そこにはまるで戦いの舞台装置のような地形が点在し、逆転劇や奇襲作戦、そして裏切りまでも生み出していたのです。
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