No.1348 『ブラタモリクイズ!山形~山形は何度も生まれ変わる?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は7月22日に放送された山形編です。

 山形県の県庁所在地・山形市。サクランボをはじめとしたフルーツの宝庫で、冬には一面に樹氷が広がり、幻想的な風景を生み出す山形。そんな山形が「何度も生まれ変わってきた」とはどのようなことなのでしょうか。山寺に人々の信仰を集めた不思議な岩ができるメカニズムとは?家康に認められた大大名が築いた国内屈指の広さを誇る城とは?山形を生まれ変わらせた「花」の正体とは?東京銀座の近代化を手掛けた役人が山形を先進都市に生まれ変わらせた?不死鳥のように何度も生まれ変わってきた山形の歴史を振り返ってみましょう!

山形市の位置

 まずは、1000年以上前の山形がどのように生まれて人々に知られてきたかを探るために、山形市の北側の山のふもとへと向かいます。 
 そこに立石寺(りっしゃくじ)という名のお寺があります。「山寺(やまでら)」と呼ばれるこのお寺は、あの松尾芭蕉の有名な句「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」が詠まれた場所でもあります。
 山寺は860年に天台宗の高僧、円仁(えんにん)によって建てられたと伝えられています。山の上のお堂からは絶景を望むことができ、山寺には年間70万人以上が訪れます。

立石寺(山寺)の本堂 画像引用元:ウィキペディア

立石寺(山寺)の納経堂と開山堂 画像引用元:ウィキペディア

 山寺は天台宗の総本山で、比叡山延暦寺と深いつながりがあり、お寺の創建時に延暦寺から分けられた「不滅の法灯(ほうとう)」が今なお燃え続けています。

 山寺は平安時代に建立して、信仰を集める霊場になっていきましたが、なぜこの地が信仰の場所になったのでしょうか?
 それがわかる場所へ向かうために、1015段ある石段を上ります。一段上がるごとに煩悩が消えると言われる石段を上ると、巨大な岩が見えてきます。
 参道から見える巨大な岩の表面には複雑な形の穴が開いているのですが、このような不思議な岩を、山寺周辺ではいくつも見ることができます。
 この岩こそが、この場所が信仰の象徴になったことに関連しているのです。
 山寺で見られる不思議な岩は、穴が開いている特徴があります。岩の正体は「凝灰岩(ぎょうかいがん)」です。

凝灰岩 画像引用元:ウィキペディア

Q1.山寺で凝灰岩が見られるということは、この辺りで何が起きたと考えられるでしょうか?
A1.火山の噴火

 凝灰岩は火山灰などの火山噴出物が堆積してできた岩石です。凝灰岩があるということは、その場所で火山の噴火が起こったことを意味します。
 この辺りにはいくつも火山があり、噴火が盛んでした。およそ800万年前には、山寺の周辺で大規模な火山の噴火があり、その時に出た火山灰や岩などの噴出物が堆積して、山寺で見られる凝灰岩ができたのです。

 では、なぜ山寺の凝灰岩には、大きな穴が開くのでしょうか。それは「雲形浸食」と呼ばれる浸食のためです。
 「雲形浸食」は、以下の流れで起こる浸食です。
 1.凝灰岩に含まれる小石が落ちて、小さな穴ができる。
 2.ここに、雨が降ると、凝灰岩に含まれる成分が水にしみ出し、穴の近くに結晶ができる。
 3.その結晶が大きくなると岩ごとはがれ落ち、穴が大きくなる。

山寺「雲形浸食」のイメージ図

 このような流れで大きな穴が岩にできるのですが、1メートルの穴ができるのに1000年から1万年かかると言われています。
 穴は大きくなると隣の穴とくっついて、さらに大きくなります。
 こうして長い年月をかけて浸食をくり返すことで、山寺独特の風景が生まれました。
 
 雲形浸食が生み出したいくつもの穴が開いた不思議な岩は、古くから人々の信仰を集めていたと言われます。
 そこに山寺ができ、街道が整備され、人々が多く集まるようになりました。やがて信仰を中心とした町が生まれ、山寺の周辺は大きく栄えたのです。
 
 そんな山寺ですが、室町時代になると戦火に巻き込まれて衰退し、勢力も弱まって行きました。
 その頃、現在の山形市の中心部には新たな町が誕生しました。
 山形はどのように生まれ変わったのでしょうか。

 山形駅の近く、町の中心部へと向かいます。

 生まれ変わった山形の様子がわかる場所は「山形城」です。

山形城・二の丸東大手門の内側 画像引用元:ウィキペディア

 城の中には、山形を生まれ変わらせた武将、最上義光(もがみよしあき)の像があります。

最上義光の肖像画 画像引用元:ウィキペディア

 最上義光とは、どのような人物だったのでしょうか?
 最上は戦国時代から江戸時代にかけて、山形周辺を治めた武将で、今の山形市の礎を築きました。江戸時代の初めには、初代山形藩主を務めています。
 関ケ原の戦いが起こった1600年、反徳川の上杉軍との戦い(慶長出羽合戦)の際に、徳川家康の天下統一に貢献したことで広く名が知られることになりました。
 最上は家康から高い評価を受け、多くの領地を与えられ、江戸時代の初めに山形藩は全国有数の藩となったのです。その石高(1602年)は、島津や黒田長政よりも上位の全国5位で、最上義光はまさに「大大名」となりました。

 その最上義光が整備した山形城の本丸は現在も発掘調査が進んでいます。

山形城の古絵図 画像引用元:ウィキペディア

Q2.山形城の本丸から出土したものの中に、「金箔瓦」があります。金箔瓦は織田信長が安土城の屋根に使ったことに始まり、豊臣秀吉の居城、有力家臣の大名屋敷で使われるようになりました。このことから金箔瓦にはどのような意味合いがあると考えられるでしょうか?
A2.権威の象徴

伏見城の金箔瓦 画像引用元:ウィキペディア

 金箔瓦が出土したことから、最上がこの土地をかなりの力を持って治めていたことがわかります。

 山形城はその規模が大きいことも特徴的です。当時の絵図を見ると、本丸の周辺は、山形城のほんの一部でしかありません。城に入る門の外側には広大な「三ノ丸」が広がり、最上家に仕える武士の屋敷で埋め尽くされていました。

Q3.城の大きさ(最も外側の外郭線までの範囲)で山形城は第5位にランクインします。第4位は名古屋城、第3位は小田原城、第2位は大坂城(豊臣)です。第1位はどこでしょうか?
A3.江戸城

江戸城の絵図 画像引用元:ウィキペディア

 第1位の江戸城は、2,082ha(ヘクタール)と圧倒的な広さで、第2位大坂城(400~500ha)と大きな開きがあります。
 山形城は各地の名だたる城に次ぐ規模(235ha)で、東京ドーム50個分の面積を誇ります。山形は最上義光によって、東北一の広大な城を持つ町に生まれ変わったのです。

 広大な敷地を持つ山形城とその城下町には3万人以上が住んでいたと考えられています。
 ただし、その繁栄は長くは続きませんでした。
 江戸時代末期の山形城の絵図を見ると、「田」「畑」の文字が多く見らます。幕末には城の三ノ丸のほとんどが、田んぼと畑になったのです。
 なぜこのように変化してしまったのでしょうか?

 最上義光の時代から幕末に向けて、藩主が変わるごとに山形藩の石高は減って行きました。江戸時代の初めは57万石あったのが、幕末には5万石と10分の1にまで減っています。
 義光の後の最上家は、お家騒動などがあって山形からとばされてしまいました。その後は山形の外から来た大名が、代わる代わる山形藩を治めるようになったのですが、藩主が代わる度に領地や家来の数は減少しました。
 山形藩を収めた大名たちも、実は他の地からとばされて山形に来て、山形でほとぼりを冷ましてから、江戸に呼び返されていました。
 この時の山形は、いわば「左遷(させん)地」だったのです。

 そんな中にあっても、江戸時代には武士の社会だった山形は、また新しい形へと生まれ変わって行きました。
 政治がダメなら経済で盛り返す!城の中は田畑ばかりになってしまいましたが、城下町では商人を中心としたにぎわいが見られました。
 江戸時代後半、今度は商人たちが「ある商売」で山形を生まれ変わらせて行くのです。

 「ある商売」の秘密を明かすために、城下町の南側へと向かいます。

 現在はパン屋となっている店舗の裏に蔵があります。この蔵の中にヒントがあります。
 蔵の中には部屋があり、もともとは荷蔵(荷物を入れておく倉庫)でした。蔵に残る江戸時代の商売道具を見ると、鑑札(かんさつ)があります。鑑札とは、江戸時代に営業を許可された商人が所持した木札のことです。
 その鑑札に「紅花(べにばな)」と記されていることから、この辺りで紅花の商売が営まれていたことがわかります。

紅花 画像引用元:ウィキペディア

 紅花は、染料のもとになる花です。黄色い花から鮮やかな赤色の染料を作ることができます。高級な着物や口紅などに使われ、江戸時代は特に高い人気を誇っていたと言われます。
 江戸時代に紅花は各地で生産されていましたが、全国の半分近くを山形で生産していました。
 
 山形の紅花でつくられた染料の最大の需要地は「京都」でした。

Q4.江戸時代に山形の紅花でつくられた染料は、どのようなルートで京都に届けられたでしょうか?ヒントは水運です。
A4.最上川から日本海を渡って運ばれた。

 最上川流域が紅花の大生産地になったのは、気候や土壌といった条件が紅花の栽培に適していたこともありますが、最上川の舟運を利用して、京都や大阪と結びついたことで、紅花商人たちが活躍できたことが大きいと考えられています。
 酒田まで船で最上川を下り、酒田から日本海を通る船で敦賀(福井県)の港に着き、再び船に積んで大津(滋賀県)まで運び、京都に車や馬で運んだと言われています。

青矢印の先が最上川、赤矢印が京都方面へ向かう日本海ルート

 紅花に含まれる赤い染料はわずか1%程度で、染料の塊ひとつを作るのに約300もの紅花が必要です。紅花の染料はとても貴重なものだったのです。
 そのため、山形城下町の商人たちは紅花商売で莫大な利益を得ていました。最上紅花は、米の100倍、金の10倍というかなりの高値で取り引きされていたと言われています。

 それでは、なぜ山形で紅花商売が盛んになったのでしょうか?

Q5.紅花商売が盛んになった理由に、山形藩主が次々と変わったことがあります。藩主が変わるとなぜ商売が盛んになるのでしょうか?ヒントは「専売制(せんばいせい:幕府や藩などが生産・販売などを管理して利益を独占する制度)」です。
A5.藩主の力が弱く、専売制にならなかったため。

 藩主が変わらず、安定して強い権力を持つと、専売制にしたり、商人を型にはめてしまうことが起こります。
 それと反対に藩主の力が弱かった山形では専売制が行われず、商人たちが自由な商売をすることができたため、紅花商売が盛んになったのです。
 経済力を持つ紅花商人が山形藩に欠かせない存在であったことを物語る文書が残されています。「金千両(現在で400万円から1000万円)を5人の商人で用立てろ」と記した文書が、藩から商人たちに送られていました。藩に多額の資金援助をするほどに、紅花商人は高い経済力を持った豪商だったのです。

 ところが、紅花商売がもたらした繁栄の時代も長くは続きませんでした。
 江戸時代末期には、海外から安い紅花が輸入され、さらに化学染料が開発される時代になると、山形の紅花の需要はどんどん減少して行ったのです。

 そしてその後、明治に入って、また山形は新しく生まれ変わります。
 それがわかる城下町の北側へと向かいます。

 明治時代になってから造られた道を進むと、その先に、山形県郷土館「文翔館(ぶんしょうかん)」があります。

文翔館 画像引用元:ウィキペディア

Q6.郷土館「文翔館」はもともとある施設として使われていました。その施設とは何でしょうか?
A6.県庁

 明治のはじめに山形県ができた際に、この位置に県庁が建てられました。建てたのは、明治時代の初代山形県令(けんれい:県の長官)・三島通庸(みちつね)です。

三島通庸 画像引用元:ウィキペディア

 本来、県庁は城の近くに置かれますが、山形では県庁が城のお堀の外側に作られました。
 そこには、「新しい山形」をつくりだすため、古い武士の社会にとらわれないという想いがあったと考えられています。
 県令の三島通庸は山形に来る前、東京府の役人として銀座煉瓦(れんが)街の都市計画に参加して、近代化を成功させた人物でした。山形の県令となった三島は、山形を全く新しい都市へと生まれ変わらせようとしたのでした。

 明治14、15年頃の付近の絵図を見ると、県庁、師範学校、警察署の建物が描かれていますが、どの建物にも、まだ日本に入ってきたばかりの新しい建築様式が採用されました。

高橋由一による山形市街の油彩画(明治14年頃) 画像引用元:ウィキペディア

 東北初の西洋風の官庁街が完成していた山形は、全国屈指の先進都市に生まれ変わったのです。

Q7.県庁は、明治時代になって造られた通りの突き当り正面に配置されました。大通りの突き当りに西洋風の建物を置くことには、どのような目的があったと考えられるでしょうか?
A7.視覚的な効果と、新しい山形をつくるという決意表明のため。

 県庁を城のお堀の外につくったことと同じく、古い社会にとらわれないという想いをアピールし、道行く人々の目につきやすい場所につくるという目的のもと、通りの突き当りに西洋風の県庁が配置されたと考えられています。

Q8.県令・三島通庸が現代の山形に残したものがもうひとつあります。山形を代表する農作物で、全国の約7割の生産を占めるものとは何でしょうか?
A8.サクランボ

佐藤錦 画像引用元:ウィキペディア

 山形では「佐藤錦」をはじめ、サクランボの栽培が盛んで、その生産量は圧倒的に国内ナンバーワン、全国生産の約7割を占めます。
 三島通庸は山形の近代化のひとつとして、明治9年に海外のものをいち早く日本でも栽培できるようにして、農家の人々もしっかり稼げるような商品作物を早く作れるようにしたらよいと考えました。
 三島は山形市内に農業試験場を建設し、サクランボの苗を取り寄せ、商品作物としての礎を築きました。その後、地元の農家の努力と、品種改良の積み重ねで今では山形県産のサクランボが生産量で全国第1位となるに至ったのです。

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