No.1352 『ブラタモリクイズ!松島~なぜ人は松島に心ひかれる?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は8月19日に放送された松島編です。

 宮城県の松島。大小さまざまな島が浮かぶ風景は日本三景のひとつとして有名です。その独特の風景は、特別名勝に指定され、松島は国内外から多くの人々が押し寄せる、東北きっての人気観光地となっています。なぜ松島は人の心をひきつけてきたのでしょうか。松島の独特の景観を生み出している地質とは?松島は平安時代から多くの人々の信仰を集める場所だった?松島を美しい多島海にした奇跡的な自然条件とは?松島は縄文人にとって長く暮らし続けたい場所だった?古代より人々の心をひきつける松島の地形的特徴、歴史について探って行きましょう!

松島湾の位置

Q1.松島と共に「日本三景」とされる名勝地2つの呼称と所在する県名は何でしょうか?
A1.[天橋立・京都府]、[宮島(厳島)・広島県]

 日本三景については呼称だけでなく、地図上の位置も正確につかんでおきましょう。

赤丸が天橋立、青丸が宮島(厳島)

天橋立の風景 画像引用元:ウィキペディア

厳島神社大鳥居 画像引用元:ウィキペディア

 日本三景のひとつ松島ですが、そもそも松島はどのような範囲を指すのでしょうか。南北約8㎞、東西約10㎞の小さな湾を中心として、沿岸部も含めたエリアを「松島」と呼んでいます。湾の中には全部で260ほどの島があると言われています。
 まずは船に乗って松島の島々を見て周ります。

松島の風景 画像引用元:ウィキペディア

 松島の島々の中には、「鯨島」「亀島」など動物のかたちに見えることから、名称がつけられた島があります。また、千貫(せんがん)島は、伊達政宗のお気に入りの島で、島を仙台の城に運んだ者には千貫(今の約1億円)の褒美を授けると言われたとの伝説が残っています。
 美しいかたちをした松島の島々ですが、どの島も切り立った形で白っぽい岩肌が露出しているという特徴があります。

波頭のような形をした鎧島 画像引用元:ウィキペディア

Q2.松島に浮かぶ島のほとんどがある岩石でできています。もろくて、風化しやすい性質を持ったこの岩石とは何でしょうか?
A2.凝灰岩(ぎょうかいがん)

 凝灰岩とは、火山灰などの火山噴出物が堆積してできた岩石のことです。松島の島はほとんどがこの凝灰岩でできています。
 凝灰岩でできているため、松島の島々は波の影響を受けて、そこがもろくなり、ぼろぼろと風化することで今の切り立った形になっています。
 また、岩肌の色が白いのは、岩が風化することで白くなるためです。もろい凝灰岩でできた島だからこそ、風化によって少しずつ表面が崩れ、中の白い部分が露出しています。これが松島の風景を特徴づけているのです。
 「慕帰絵(ぼきえ)」という南北朝時代に描かれた松島の風景にも、風化した島の様子が描かれていますが、実はこの慕帰絵は、松島に画家が来て描いたのではなく、京都の人があるお坊さんの伝記を書く中で挿絵として描いたものでした。その時代から、京都の人の頭の中でも、松島に対するイメージが出来上がっていたと考えられています。
 遠く離れた京の都にまで伝わるほどに、独特な松島の風景は人の心をひきつけるものだったのです。

 島に生える松の木も、松島の地質が風化しやすい凝灰岩であることに深く関係しています。

Q3.松島の島々に松の木が生えるのは、松の持つ特質によります。その特質とは何でしょうか?
A3. 栄養が乏しく、あまり土がない所でも育ち、潮(しお)に強い。

千貫島に生える松の木 画像引用元:ウィキペディア

 凝灰岩でできた松島の島々は土壌がやせているので、他の植物が根付きにくい環境です。そのため、栄養が乏しく、あまり土がない所でも育つことのできる松ばかりが生える島になっていったのです。

 風化しやすい地質のおかげで、訪れる人々の心を魅了する風景となった松島ですが、松島が現在のような観光地になったのは明治以降の話です。
 それ以前の松島は、別の理由で人の心をひきつける場所だったのです。
 それがわかる場所へと向かうため、陸に戻って少し南ヘ移動します。

 雄島(おしま)という島に、人の心をひきつける秘密があります。

雄島と渡月橋(朱塗りの橋) 画像引用元:ウィキペディア

雄島の石窟 画像引用元:文化庁・全国ロケーションデータベース

 島へと渡る朱塗りの渡月橋(とげつきょう)は、東日本大震災の際に津波で流失しましたが、2013年7月に再建されました。
 雄島には多数の岩穴、石窟(せっくつ:岩山や岩場を人為的に掘削した人工の空間)がつくられており、磨崖仏(まがいぶつ:崖や岩に彫られた仏像)までもが見られます。

元箱根磨崖仏(神奈川県箱根町) 画像引用元:ウィキペディア

 多数の石窟が、松島が人の心をひきつけていた理由を知るヒントになります。
 島の南端にまで進むと、そこにかつて松島がどのように人の心をひきつけていたかがわかる場所があります。

Q4.雄島の南端にはお堂や石碑があり、地面の砂利の中には人の骨が見られます。そのことからこの雄島はかつてどのような場所だったと考えられるでしょうか?
A4.霊場だった。

 雄島に人の骨が見られることから、亡くなった人の火葬されたお骨(こつ)が、この雄島に埋葬されていたと考えられています。
 火葬された人の骨が平安時代の終わりから供養のためにこの場所に納められていたと伝えられているのですが、なぜ雄島に納められたのでしょうか。
 その答えは「極楽浄土(ごくらくじょうど)」です。雄島からは、この世のものとは思えないほどに美しい島々が織りなす風景が見えます。その風景の中の海の彼方(かなた)に浄土があって、亡くなったらこの場所から浄土に行けると考えられていました。つまり、陸地側がこの世、海の彼方が浄土で、この世と浄土の世界との接点が雄島だったのです。

 平安時代以降、人々は雄島の地に浄土を重ね、信仰していくようになりました。やがて、陸地から近い雄島が浄土への入口として、亡くなった人の供養や修行を行う場所になっていったのです。

 さらに鎌倉時代から戦国時代にかけて、雄島が信仰の地だったことを物語る証拠も残されています。

 雄島には、梵字(ぼんじ:インドでつくられた文字で、日本では主に仏を表す)が書かれた石碑があります。とても古い碑で鎌倉時代のものと考えられています。

梵字 画像引用元:ウィキペディア

 それらは供養された人々の供養塔で、「板碑(いたび)」と言います。地面を見ると、岩が凝灰岩ではなく、板碑が壊れたものが埋まっています。それほど島のあちこちに無数に板碑が立てられていたと考えられます。

日本最大の青石塔婆(板碑の一種)である野上下郷石塔婆(埼玉県長瀞町) 画像引用元:ウィキペディア

 雄島の存在が、身分を問わず多くの人々に知れ渡っていたことを物語っています。
 さらに江戸時代になっても、雄島を訪れる人が途切れることはありませんでした。

 部屋のように掘られたたくさんの石窟には、供養塔などが納められていたと考えられています。石窟の壁のあらゆるところに磨崖の碑がたくさん削られています。これらはみな江戸時代の墓碑でした。
 石窟の内側や岩肌にあますところなく彫られた供養の碑は、信仰の地、雄島で多くの人が祈りをささげた証しです。
 「奥州の高野」とも称される死者供養の霊場である雄島は、今も松島に心をひかれた人々の想いを伝え続けています。

 ここからは松島の景観について、なぜ現在のような美しい風景が出来上がったのかを探るため、松島全体を見渡せる町の高台へと向かいます。
 松島のような、多くの島が点在する海域を「多島海(たとうかい)」と言います。日本では松島以外にも、瀬戸内海や長崎県の九十九島海域など多くの多島海が見られます。

 松島の多島海の景観はどのようにしてできたのでしょうか。

Q5.松島湾が多島海になった理由には、海面が大きく関係しています。海面と多島海ができる理由とはどのような関係があるでしょうか?
A5.氷期に低い位置にあった海面が上昇することで多島海をつくりだした。

 氷期(ひょうき)とは、地球の気温が低かった時代のことです。今からおよそ8000年前、松島湾の海面は今より20mくらい低い位置にありました。その後、縄文時代に地殻の変動による一部沈下と気候の温暖化に伴って海面が上昇し、およそ7000年前に今の松島の風景ができあがったのです。

海面上昇による多島海形成のイメージ

 海面が上昇し過ぎると、山々の頂上が海面下に消えてしまい、現在の多島海にはなりませんでした。
 絶妙な高さにまで海面が上がったために美しい景観の多島海ができたのです。

 美しい松島の風景には、もうひとつ「地形的な条件」が関係しています。
 松島湾の北側にある野蒜(のびる)海岸へと向います。

 海岸の近くにある畑の上からは、凝灰岩の岩がポコポコと出ています。凝灰岩があり、松が生えている点では、この場所は松島の地形と共通していますが、ここは陸地で海の上ではありません。
 実はこの場所は、かつては松島湾とつながる多島海だったのです。江戸時代にかかれた絵図で現在の場所を見ると、畑のある場所もかつて海の中にありました。
 それが今は海面の高さが下がって、陸化しています。
 この地を「陸松島」とすると、この陸松島こそが多島海、松島湾の成り立ちを解き明かすための重要なカギになります。

Q6.かつて多島海だった「陸松島」はどのようにして現在のような陸地になったのでしょうか?
A6.川によって運ばれた土砂によって海が埋まった。

 この場所は土砂によって海が埋まり、陸松島となりました。昭和の初めまでは、一部海が残っていたのですが、現在は完全な陸地になっています。
 一方の松島湾は、縄文時代から変わらず、現在も海のままです。

Q7.松島湾はなぜ陸地にならず、海のままなのでしょうか?
A7.松島湾には大きな川がなかったため。

 陸松島と松島湾の違いは、土砂が供給され過ぎたのが陸松島であるのに対し、松島湾は土砂の供給が少なかったという点です。
 松島湾と他の辺りでは川の状態が大きく異なっていたのです。

赤丸が松島湾、紫矢印の先が鳴瀬川、オレンジ矢印の先が旧北上川、青の矢印の先が最上川

 およそ7800年前の松島湾の周辺では、湾の東側に何千年もかけて大きな川(現在の鳴瀬川と旧北上川、北上川)が大量の土砂を運び、陸地がどんどん広がって行きました。
 やがて、土砂は波で打ち寄せられて、西側へと運ばれ、多島海の一部を「陸松島」に変えてしまいます。
 一方の松島湾には大きな川がなかったため、海が埋まるほどに土砂がたまることはありませんでした。そのため、松島湾は多島海の姿を保つことができたのです。
 川がなかったことで幸運にも多島海が守られたと言えます。

 縄文時代から変わらず人の心をひきつけてきた多島海・松島の風景は、地形の偶然が重なって守られてきたのです。

 次に、縄文時代から現在まで、あまり環境が変わっていない場所、松島湾最大の島・宮戸(みやと)島へと向かいます。
 そこで、松島が縄文人にとってどのような場所であったのかがわかります。

宮戸島の位置

 宮戸島で海が見える場所に行くと、足元に注目すると貝殻が多数散らばっています。

Q8.宮戸島には多数の貝殻が散らばっている場所がありますが、そこは何と呼ばれるところでしょうか?
A8.貝塚

里浜貝塚 画像引用元:宮城県公式HP

 その場所は「里浜(さとはま)貝塚」という日本最大級の規模を持つ貝塚です。貝殻だけでなく、魚の骨やフグの歯、マグロの骨などが見られ、縄文人が暮らしていた時の様子を現在もそのままに見られる場所なのです。
 松島湾周辺からはこの場所以外にも、およそ70か所の貝塚が見つかっています。
 地形の環境も変わらず、食べ物も安定して豊かな山の幸、海の幸が手に入り、それが変わらずあり続けたため、縄文人は松島から離れることなく、5000年くらい住み続けることができたと言われています。
 
 豊富な食料におだやかで美しい景色が見られる松島。縄文人も松島に心ひかれていたのかもしれません。

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