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新4年SAPIX入室テスト予想問題について
今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は10月28日に放送された錦帯橋編です。
今日の舞台は、山口県の岩国市にある錦帯橋です。350年の歴史を持ち、四季折々の美しい眺めを見せてくれる錦帯橋は、国の名勝(めいしょう)に指定されています。江戸時代から人気スポットだった錦帯橋はあの浮世絵師にも描かれていた?錦帯橋は武士たちの「通勤ルート」だった?錦帯橋誕生のきっかけは、あの「天下分け目」の決戦だった?暴れ川の水圧に負けない錦帯橋の強さの秘密とは?錦帯橋には、なぜ世界唯一の美しさがあるのかを探って行きましょう!
錦帯橋のある山口県・岩国市の位置
錦帯橋が架けられたのは、江戸時代前期の1673年になります。その後、橋の部材の交換は行われていますが、今年で350年を迎えます。
錦帯橋 画像引用元:ウィキペディア
この規模のアーチ構造の橋は、世界で錦帯橋ただひとつと言われています。
3つのアーチの途中を支える柱がなく、両端を水平に固定することによって全ての重さを支えるという構造になっています。
錦帯橋はその世界唯一の美しさから、江戸時代から人気のスポットとなっていました。参勤交代をする西国大名から徐々に日本各地に知れ渡ったとされています。
Q1.錦帯橋は江戸時代の浮世絵師たちが題材とするほど、古くから人気スポットでした。錦帯橋を描いた浮世絵師の一人で『富嶽三十六景』の作者として知られる人物は誰でしょうか?
A1.葛飾北斎(かつしかほくさい)
錦帯橋は葛飾北斎の他、歌川広重(うたがわひろしげ)にも描かれるほどの人気スポットでした。
そこで北斎が描いた下の絵と同じ角度から錦帯橋を見てみましょう。
葛飾北斎の錦帯橋 画像引用元:ウィキペディア
岩国城と錦帯橋 画像引用元:ウィキペディア
錦帯橋の向こうには岩国城も望める美しい角度です。
この錦帯橋の美しさとは、一体何でしょうか?
一般的な江戸時代の橋と言えば、簡単な構造のイメージがあり、その点からも錦帯橋は当時としても規格外の豪華な橋だったと言えます。
実はその錦帯橋、最初から「美しさ」を狙ったものではありませんでした。
そもそも錦帯橋が架けられた理由を探っていくと、美しさの秘密が分かってきます。
まずは、錦帯橋のすぐ近くの住宅街へと向かいます。
そこで、なぜ錦帯橋が架けられたのかを探って行きましょう。
その住宅街は歴史がありそうな町で、マンホールに錦帯橋のデザインがあるなど、町のあちこちに錦帯橋を描いたモチーフが見られます。
町の名前を記した古い看板も残されています。
岩国市出身で、『おはん』などの作品で有名な小説家・随筆家の宇野千代さんの言葉が書かれた看板も見られます。
若き日の宇野千代(1930年代) 画像引用元:ウィキペディア
江戸時代から続いてる創業300年の漬物屋さんも、今でも営業しています。
では、この町はどんな町だったのでしょうか?
Q2.大正時代頃のこの町の地図を見ると、「材木」「魚」「塩」といった表記が見られます。このことから、この町にはどのような人々が住んでいたと考えられるでしょうか?
A2.商人
江戸時代、この辺りには商人が住む町がありました。
では、錦帯橋により近いエリアはどんな人が住む町だったのでしょうか?
今でもその辺りには立派な住宅が残っています。家のある一画が大きく、ちゃんとした門があることから、当時は武士が住んでいたとわかります。
武家屋敷が立ち並ぶこの辺りは、先程の町と比べて道幅も倍近く広くなっています。まさに江戸時代のメインストリートだった場所なのです。
そのメインストリートが錦帯橋にまっすぐつながっています。
つまり、錦帯橋をすぐに渡れる場所に武士が住んでいたということです。
岩国城が見えていることから、錦帯橋は主に城下町から城側に行く武士たちのための、まさに「通勤ルート」だったことがわかります。
では、なぜ橋の対岸に城下町をつくったのでしょうか?
本来ならば、城の防御のためにも川の城側に町をつくった方がよいはずです。
そこで、城と城下町が川で隔てられている理由を探るため、岩国城へと向かいます。
岩国城の復興天守 画像引用元:ウィキペディア
岩国城の天守はもともと別の場所にありましたが、昭和37年の再建の際に、山の下から見えやすい現在の位置につくられました。
城のある場所からの眺めは絶景で、錦帯橋はもちろん、瀬戸内海も見渡すことができます。
城のある山のふもとには平地がありません。
領主や重臣の家、役所もありましたが、土地が狭いため、川の向こう側に町を広げて、武士や商人の住まいにしたのです。
町が川で分断されているため、それをつなぐ橋の存在が必須になりました。
Q3.城をこの場所につくった理由のひとつは何でしょうか?ヒントは先程触れた「絶景」です。
A3.瀬戸内海が見渡せるため。
瀬戸内海が一望できるこの場所からは、敵が攻めてくるのがすぐに見えるという利点がありました。
ただ、理由はそれだけではありません。
瀬戸内海と反対側の景色に関係があります。城の裏側を空中撮影すると、川が取り巻いていることがわかります。
川が山を周っていて、「天然の堀」になっているため、敵が侵略するのが難しくなっているのです。
岩国城周辺の空中写真
※赤矢印の先が岩国城、青矢印の先が山を取り巻くように流れる川です。
さらにこの場所は、ある重要なものをおさえることができます。
それは「山陽道」です。広島へと抜ける山陽道という重要な街道を、目視で確認することができるのです。
ここに城を築いたのは、天然の堀を備え、見張りもしやすい「防衛拠点」として適した場所だったからなのです。
このように、岩国城はかなり戦いを意識した山城(やまじろ:山につくられた戦いを意識した城)であることがわかりましたが、実は城がつくられたのは江戸時代の初め、1608年でした。
山城の多くは戦国時代までに築かれ、江戸時代以降、新たに建てられた山城は、ほとんどありません。
では、なぜこの時代に山城が築かれたのでしょうか?
この城を建てたのは、毛利家の一族であった吉川広家(きっかわひろいえ:毛利家と血縁関係にある初代岩国領主)です。この広家、「徳川に内通した人物」として有名です。
吉川広家(東京大学史料編纂所所蔵) 画像引用元:ウィキペディア
Q4.吉川広家がこの場所に山城を築いたことと深く関係している戦いがあります。豊臣氏が一大名の地位にまで落とされることになった、「天下分け目」と言われる戦いとは何でしょうか?
A4.関ヶ原の戦い
1600年の関ヶ原の戦いが、吉川広家がこの場所に山城を築いたことと深く関係しているとはどういうことなのでしょうか。
関ヶ原の戦いの最終的な布陣を見てみると、毛利家の一族である吉川広家は、南宮山に陣をとる毛利秀元のすぐ近くにいました。
毛利秀元像 画像引用元:ウィキペディア
毛利は1万6千もの軍を持つ石田三成率いる西軍最大の勢力でしたので、もしも西軍の毛利が動いていたならば戦局は大きく変わり、徳川率いる東軍にとっては危機的状況になっていました。
ところが、毛利の軍は、吉川広家に止められて最後まで動かなかったのです。この毛利の動きが東軍勝利の大きな要因となりました。
実はこの戦いで東軍が勝つと踏んでいた吉川広家が、東軍に内通(ないつう:秘かに敵と通じること)し、ある密約を結んでいました。
関ヶ原の戦い時点で、毛利家は中国地方のほとんどを治めていました。そこで吉川広家は、毛利側が動かない代わりに、この領土を保全してくれと東軍に交渉したのです。
ところが結果的には、関ヶ原の戦い後、毛利の領土は長門と周防の2国に減らされてしまいました。
吉川家は毛利家から岩国を任されることになりました。
岩国のすぐ隣の安芸(あき)には、関ヶ原の戦いで東軍の最前線を任された武将、福島正則(ふくしままさのり)が入りました。
関ヶ原の戦い直後に福島正則がすぐ隣にいるため、毛利家の最前線に立つことになった吉川は、戦いを大いに意識した山城をつくったのです。
岩国城ができたのは1608年のこと。そのため、徳川家康が立案した1615年の「一国一城令(いっこくいちじょうれい」によって、この城はでわずか7年で壊されることになりました。一国一城令とは、1615年に諸大名に対して、居城以外のすべての城の壊すように命じたもので、特に西国大名に対し,特に厳重に施行されました。諸大名の軍事力を抑圧することを主な目的としたものです。
城が壊されても、吉川家の屋敷と武士たちが働く役所は山のふもとに残りましたので、役所と武士の住まいが川で分断された珍しい城下町は、その後も続くことになったのです。
そんな他にはないような歴史が、特別な橋・錦帯橋の誕生につながって行きます。
錦帯橋が完成したのは1673年。
1608年に岩国城を建ててから65年間、何度橋をつくっても流されてきました。
吉川家は広家から孫の広嘉(ひろよし)まで3代にわたって、橋づくりに取り組んだのです。
橋づくりが困難を極めた理由は川(錦川)の特徴にありました。
Q5.橋をつくることを困難にした錦川の特徴とは何でしょうか?下の空中写真を見て考えてみましょう。
錦川の空中写真
※黄色矢印の先が錦川です。
A5.ずっと山の中を通ってきていること。
錦川の下流近くまでがほとんど山地で、しかも狭い谷ばかりのため、この流域に雨が降ると、川幅が狭いことで、水量が一気に上昇してしまうことになります。錦川は洪水が非常に多い暴れ川だったのです。
そのため橋も相当頑丈につくらなければならなくなります。
洪水に流されない頑丈な橋を目指して架けられたのが錦帯橋だったのです。
頑丈な橋を目指した結果、錦帯橋は機能美を備えた美しい橋になりました。
そこで、錦帯橋のすぐ近くに戻って、流されない橋をつくるための工夫とそこから生まれた美しさを探ってみましょう。
昨年2022年の増水時には、川の水位が錦帯橋の橋脚を覆うまでに上昇しましたが、この時も橋は無事でした。
錦帯橋のどんなところに、流されない工夫があるのでしょうか?
まずは近くに寄って、橋脚を見てみましょう。
橋脚の形にどんな特徴があるでしょうか?
Q6.下の画像は、錦帯橋の欄干から橋脚部分を見たものです。この画像から、どのような橋脚づくりの工夫がなされていると考えられるでしょうか?
A6.水圧が分散するように工夫されている。
水圧が分散されるイメージ図
※青矢印が水の流れです。
石の橋脚にして、形を「船のへさき」のようにすることで、水圧に負けない頑丈な橋脚がつくられました。
さらに、橋脚をつくるにあたって、技術者を長崎に派遣させました。
長崎には「眼鏡橋(めがねばし)」をはじめ石の橋が多くあるため、錦帯橋をつくる際にもそれらの橋を参考にしたのでした。
長崎の眼鏡橋 画像引用元:ウィキペディア
Q7.長崎の眼鏡橋の通りの構造で錦川に橋を架けることができなかった理由は何でしょうか?ヒントは眼鏡橋とは川幅が違うことです。
A7.錦川の方が川幅が広いので、橋脚が多くなってしまい、より多く水圧を受けてしまうため。
実際に長崎の眼鏡橋をこの場所でつくろうとすると、計算上17もの数のアーチになって、水圧を多く受けすぎることになってしまいます。
錦帯橋をつくる際には、橋脚の数をできるだけ少なくして、水圧を受ける面積を最小限に抑える必要がありました。
ただし、橋脚を少なくすることは簡単ではありません。橋脚を少なくすると、橋脚と橋脚の間が長くなります。そうなると眼鏡橋のように石でつなぐのは難しくなります。
そこで石ではなく木で行くことになりました。
その結果、美しいアーチ橋ができていったのです。
それでは、アーチがどのような構造なのか、色々な角度から見てみましょう。
まずは真下から見ると、複雑な構造ですが、美しさがあります。
木組みの技術においては、日本は世界最高レベルにあったと言えるでしょう。
錦帯橋の裏側 画像引用元:ウィキペディア
次に真横から見ると、根元は比較的カーブが急で、中央がなだらかなカーブになっています。
その仕組みを具体的に知るために「南京玉すだれ」を使って実際にアーチをつくってみます。この南京玉すだれに、錦帯橋のアーチ構造の謎を解くヒントがあるのです。
南京玉すだれ
短い木を少しずつずらして重ねながら、中央でくっつけるとアーチが完成します。錦帯橋も構造の考え方は同じです。
錦帯橋のアーチも短い木材を少しずつずらしながら重ねています。
完成した巨大な木造アーチは世界で唯一のものになりました。
川に流されない橋を架けようと、吉川家と岩国の技術者たちが試行錯誤を重ねた結果、見た目も美しい橋が誕生したのです。
錦帯橋が完成した後、吉川広嘉も家族と一緒に鵜飼を見物したという資料が残されています。悲願だった町と町をつなぐ橋の完成を、広嘉はどんな風に見ていたのでしょう。
ここからは、実際にアーチ部分をどのようにつくっているのかがわかる場所へと向かいます。
錦帯橋と構造が同じで、すべてのパーツが1/5になった模型が置かれた場所があります。錦帯橋の仕組みを組み立てながら学べるもので、出前授業などで使われています。
岩国市錦帯橋課(錦帯橋の管理や保存、世界遺産登録推進などを担当)の職員の方々が組立てを手伝ってくれます。
桁材(けたざい)という材木を、11本を重ねて前にのばして行きます。
アーチの構造を側面から見た図 画像引用元:錦帯橋世界文化遺産登録推進協議会HP
組み立てる段階では支えが必要で、この支えは後でとります。
強力なバンドのようなもので縛って固定しますが、実際は巻金(まきがね)という金属で材木を縛って行きます。
徐々に中央へと桁材が向かい、いよいよ中央でつながります。
支えを取ってアーチが完成です!
あとはアーチの横方向については、振止(ふれどめ:橋の裏から見るとエックスの形に組まれた部分)で横揺れを防いでいます。
錦帯橋の振止 画像引用元:岩国市公式HP
江戸時代の技術でつくられた橋は、実は驚くほどの強度を持っていることがわかりました。
2001年に行われた強度実験で、なんと60トンの土のうをのせても、わずか2.7cmしか沈まなかったのです。
およそ20年前の錦帯橋の架け替え工事に当時最年少で参加した大工・沖川公彦(おきかわきみひこ)さんのお話を聞きます。
沖川さんは、現在は錦帯橋の橋守(はしもり)として、橋の点検や補修を行っています。橋の模型も沖川さんがつくったものです。
構造は木組みが350年前から変わっておらず、改良の余地がないほど、その時点で完成していたのだそうです。
Q8.秋錦帯橋が傷むとしたら、特にどの場所なのでしょうか?ヒントは雨です。
A8.木組みと、その上にのる板の間
錦帯橋は木組みの上に橋板(きょうばん)がのっていて、それが屋根の代わりになるのですが、錦帯橋は「雨ざらし」のため、下に水がたまってしまいます。その辺りから傷んでいって、腐ったりしてしまうとのことです。
橋の保存を目的とするならば、人が渡るのを禁止すればよいのですが、それは錦帯橋ではありません。
錦帯橋は渡る橋でないとダメなのです。だからこそ修繕を続けることで350年美しさを保っているのです。
美しさを保つ錦帯橋。その修繕の工夫を見に行きましょう。
釘のまわりが傷んできますので、そこから水が下に行かないように止水が施されます。
また、目地(めち:部材の間のすき間、継ぎ目部分)の間が劣化して腐っていくので、腐ったところだけ除去して埋木をしているのです。
修理工事中の錦帯橋(2004年2月) 画像引用元:ウィキペディア
沖川さんのお話では、これまで岩国の大工さんたちは技術を継承することで350年間変わらぬ姿の錦帯橋を守ってきましたが、現代は一般的な大工さんでは、錦帯橋の伝統工法での架け替えは難しくなってきています。
だからこそ今後を担う次世代の大工さんの育成が必要になってきているとのことです。
錦帯橋を生んだ先人たちの情熱。そしてそれを守り継ぐ人たちの橋への愛。
世界唯一の美しさには、多くの人の想いが込められているのです。
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