No.1115 中学受験を舞台に、破綻と再生を凄まじいリアリティで描いた話題作!『翼の翼』朝比奈あすか(光文社)

amazon『翼の翼』朝比奈あすか(光文社)

 いつもは、入試に出る可能性がある書籍を予想問題付きでご紹介しているこのメルマガですが、今回は親御さんに読んで頂きたい本として『翼の翼』をご紹介させて頂きます。
 本書は2020年度入試にて開成中・海城中・サレジオ学院中などで出題され、同年度入試のトピックにもなった『君たちは今が世界』の著者である朝比奈あすか氏が、中学受験をテーマに描いた物語ということで、大きな反響を呼んでいる作品です。すでに読まれた親御様も多くいらっしゃるかと思いますが、リアリティに満ちた描写でつづられたこの壮絶な物語は、現在受験生であるお子様の親御様、そしてこれから中学受験をすべきか検討されている親御様の心に響くであろう言葉に満ち満ちており、貴重な読書体験となることは間違いありません。

【円佳の姿が伝えるものとは】

 この物語は、ただの「受験あるある」では決してなく、中学受験を非難するものでも、逆に奨励するものでもありません。ただ息子の中学受験という限られた時間の中で、もがき苦しみながら再生のきっかけをつかんで行く母親の5年間の生き様を描いた物語です。その物語が読み手である私たちを強く惹きつけているのは、そこに驚くほどのリアリティがあるからに他ありません。
 著者の朝比奈あすか氏自身が中学受験生の親としての経験を実際に積んだこともありますが、おそらく莫大な量の取材をしたのではないか、そう思わせるほどに、描写がリアリティに満ちていて、円佳の心の痛みがより切実に読み手に伝わってくるのです。
 翼が通う塾のクラス昇降の制度、また塾の講師との面談の様子などは臨場感すら感じられるほどの真実味があります。円佳がママ友との会話やネットへの書き込みで垣間見せる、ちょっとした優越感に浸る(いわゆるマウントをとる)様子もリアルに描かれており、そこには『君たちは今が世界』でも随所に見られた、誰しもが抱いてしまいがちな、ざらついた心の闇が見事に表されています。
 そうしたリアリティだけであれば、受験あるあるにとどまってしまうところですが、この作品がそこを超えた領域にまで超越しているのは、この物語における真のリアリティが、円佳が不安の穴に陥って行く過程にこそあるから、と考えられます。
 例えばママ友から陰湿ないやがらせを受ける、翼が塾でいじめにあうなどといった、際立った事件が起こることはこの物語ではありません。つまり、決定的な出来事があったからではなく、気が付けば不安の穴がそこにあった、という点で、誰しもが円佳になり得るというリアリティが物語で表されているのです。
 不安に押しつぶされそうになる円佳の様子をあえて破綻とするならば、破綻するきっかけは明確には表されていない。気が付けばそうなっていた、というところなのですが、そこから再生するきっかけは、物語の終盤にはっきりと描かれています(ここで言う再生とは、翼の中学受験の結果ということでは全くなく、円佳自身が自分の思いにある終着点を見出すという意味です)。徹底的に追い詰められた円佳でしたが、友人の貴子に、そして夫・真治に心の奥底にある想いを長く、強く吐露することで、深い闇から這い上がるきっかけをつかむのです。
  
 読んでいてつらくなる場面も多々あります。ただ、この物語はどうか最後まで、さらに言えば「最後の1ページまで」読んで頂きたいのです。持たれる印象はそれぞれになりますが、円佳の姿から得られるところが少なからずあると思うからです。そして、詳しくはお伝えできませんが、最後の1ページに、紙をめくるという電子書籍ではできない行為にこそ本を読む楽しみがある、と感じさせる仕掛けが施されています。ぜひその楽しみも味わってください。

 さて、ここからは円佳の心情の動きを中学受験的に解説していきましょう。気を付けて書きましたが、若干のネタバレ感もありますのでご容赦ください。

【不安に脅かされて行く円佳の心情】

 この作品は、小学生男子の翼の母親である円佳(まどか)の言葉で物語が進行して行きます。翼が2年生の頃の第一章「八歳」、4年生である第二章「十歳」、そして6年生となった「十二歳」の3章で構成されているのですが、章を追うごとに深まる母親・円佳の不安と苦しみが物語の軸となります。
 章ごとに、円佳の心情の動きを追ってみましょう。

・第一章 八歳

 翼が中学受験をスタートするかどうかをまだ決めていないまま、お試しのつもりで塾のテストを受けさせた円佳でしたが、心の中では次のような気持ちでいました。

ちょっとやってみて、大変そうだったらやめればいいし。(P.65の18行目)

 この頃の円佳には、勉強に取り組む翼の姿に胸を打たれるといった、まだ不安の影もない段階であったことを感じさせる、以下のような様子もうかがえました。

この手でずっと鉛筆を握っていたんだね。そう思ったら、熱く震える感情が円佳の心に流れ込んだ。(P.8の7行目から8行目)

 翼が四歳の頃に円佳が吐露した「世界で一番大切な存在は翼だ。自分の命よりも大事だ。(P.28の3行目)」という思いは、この後に翼が年令を重ねても、一切変わることなく円佳の心の根底にあるものです。翼に受験をさせようという動機が、ただただ偏差値の高い学校に通わせたいといった限定された思いではないことは以下の言葉からも理解できます。

この子にはもっとハイレベルな授業と、刺激的なライバルが必要だ。(P.16の12行目)

 我が子の将来を考え、中学受験という道を選んだこの時期の円佳は、漠然とした不安こそあれ、その道がどれほど険しいものであるかまでは思い及んでいませんでした。
 この第一章は、眠る息子・翼の額にキスをする円佳の姿で終わります。それがこの物語の中で、親子の直接的な温かな触れ合いが描かれる最後の場面となります。

・第二章 十歳

 この章では、翼の成績の上下に不安と喜びを激しく行き来させ、優越感や絶望感など様々な思いに翻弄される円佳の姿が描かれています。全編を通じて円佳の心の動きが最も強く描かれているのが、この第二章です。
 円佳は翼が受けたテストの結果に一喜一憂するようになります。テストの結果が悪かった時には立ち眩みがするほどのショックを受け、成績がアップした際には喜びの涙にくれる。そうした自分について円佳は次のように語ります。

一喜一憂しないようにとはよく言われるが、これが「一喜」と分かっていても、長いこと「憂」の時間が続いたのだから、この「喜」を思い切り味わいたかった。(P.154の11行目から12行目)

 安定した心持でいたいと思いながらも、テストの結果を気にしないではいられない、至極もっともな心情を的確に表した、説得力のある言葉です。
 相談に応じてくれた塾の講師の言葉につかの間の安心感を得た後でも、少しの時間が経つだけで以下のような心情になってしまいます。

とはいえ、つかの間はつかの間に過ぎず、すぐに我に返る。翼はこの先どうなってしまうのだろう。家事をしていても、テレビを見ていても、心のどこかで不安が常在し、焦っているのだった。(P.142の4行目から5行目)

 まるでジェットコースターのように乱高下する円佳の心情ですが、そうした揺れ動きの根本にあるのは底知れない不安です。この章の終わり、勉強に追われて疲れを見せる翼に「ねえ、大丈夫なの?つーちゃん」と問いかけたところに続けてある以下の表現に、円佳の心を蝕む不安が的確に表されています。

もはやそれを聞くことで何を得たいのか、円佳自身も分からない。だが、口は勝手に動く。成人し、子どもを産み育てている母親の口が、我が子相手だと、こうも制御なく動くのだ。傷つけたいわけでも、プライドを損ないたいわけでも勿論なく、ただ自らの不安ゆえに思ったことを垂れ流す母の口を前に、息子は何を言えばいいのだろう。(P.195の2行目から5行目)

 円佳の心は安定感を失うことで、自分でもコントロールできないような歪んだ感情にとらわれて行きます。
 特に印象的なのは、翼が友人の翔太よりもテストで高い得点を取ったことを知った後、円佳の目に映る光景が以下のように描かれたところです。

夏の空はまぶしい水色に輝き、光の粒を含んでいるような空気が街の輪郭をくっきりと映えさせる。(P.180の12行目から13行目)

 実は、この物語全体でこのような美しい光景が描かれる箇所は極めて少なく、この美しさに満ちた光景が、円佳が優越感を抱いたからこそ見えたものである、という何とも皮肉な表現になっているのです。それもまた、円佳の心が不安で壊れ始めていることを表す端的な表現であると考えられます。
 こうした円佳の不安を増強させているひとつの要因が、ネットへの書き込みです。円佳はブログや掲示板で受験生の親が書き込んでいるサイトを見つけては、その言葉の往来にのめり込んで行きます。
 高圧的な表現をするブログの記事を見ては、「読み終えると、いらいらと落ち着かない気分になってしまう。(P.129 6行目から7行目)」といった心情になり、同じく不安にかられた受験生の親の書き込みに、励ましの書き込みをし、感謝をされると、「自分の言葉が人の心を動かした手ごたえがあった。(P.141の19行目からP.142の1行目)」と高揚した気持ちになるなど、まさにネットが心の拠り所になっているのです。
 円佳には何人かのママ友がいるのですが、「リアルな友達とは、中学受験の話を深くしにくい(P.192の1行目)」とあるように、円佳は生身の人間同士のコミュニケーションよりもネットの世界に依存して行きます。
 どこかに気持ちのはけ口を求めることは必要で、それがネットという場所になることもこの時世では全く不思議ではないでしょう。まして、円佳にとって周りに相談できる相手、心の内を聞いてくれるような相手がいたとは言えない状況でした。受験に対しては円佳を見下すような発言もする夫・真治に対し、円佳は次のように語っています。

この辛さをひとつとして共有してもらえないのだ。(P.148の11行目から12行目)

 自分の母親は孫の受験に積極的に賛成はしてくれず、逆に真治の両親には学歴偏重の頑なな考え方には相いれないものがある、といった状況に置かれた円佳が、心の支えをネットに託したことは決して批判的に見られるものではないでしょう。
 ただ、ネット以外に心の置き場がなかったことが、これから先の円佳を追い詰めて行くことになるのです。
 この作品に対して、中学受験というもののあり方自体に警鐘を鳴らしている、という見方もあるかもしれませんが、むしろ警鐘を鳴らしているのは、孤独な人の心にいとも簡単に入り込む、ネットの言葉の恐ろしさに対してである、と言えるかもしれません。

・第三章 十二歳

 この作品の大きな魅力のひとつが、構成の妙が感じられるところです。環境設定にあたる第一章、円佳の心の動きが加速度的に激しくなる第二章、そして入試当日まで厳しい事態がたたみかけるように起こる第三章、とまさに「序破急」の構成で、読み手の心はわしづかみにされます。
 この第三章は、まさに怒涛の展開で物語が突き進んで行きます。

 6年生になった翼に大きな環境の変化が起こります。海外で単身赴任だった父親・真治が仕事の関係で帰国し、翼の勉強を見ることになったのですが、自身が中学受験で苦い経験をした真治は何かにとらわれたように翼を罵倒し、時に手を上げ、徹底的に厳しく指導を繰り返します。そのプレッシャーもあり、塾のテストで不正行為をしてしまったことを知った円佳は激しく取り乱します。真治の翼への厳しさも過熱し、泣きじゃくる翼に対し、中学受験を続けて最難関校を目指すか、中学受験を辞めるかの選択を迫るのです。
 この光景を円佳は以下のように語ります。

泣きじゃくる息子に自分の指を握らせる父親の姿は、思い返せばどこかしら滑稽で、しかしながら不気味で、まがまがしく、あの空間は痛々しい狂気に満ちていなかったか。(P.227 の16行目から17行目)

 狂気という言葉まで使いながら、翼に受験の継続を選択させたことに満悦の表情を浮かべる真治に対し、感謝の言葉を発してしまうほどに、円佳自身も追い込まれてしまうのです。
 そしてついに重大な事件が起きてしまいます。詳細についてここでは触れませんが、翼の生命の危険が感じられるような事件となり、円佳の疲弊は限界に近くなります。
 ここで円佳の心情にひとつの大きな変換点を与えたのは、円佳の友人である貴子の言葉でした。貴子の言葉を受けた円佳は、これまで心の奥底にしまい込んでいた思い、もう自分では抱えきれなくなった苦しみを貴子に思いきりぶつけます。
 それに対して貴子が円佳に示した反応が、円佳の心情に変化の種を与えたのです。
 その後、円佳は翼に「ママが、もうつーちゃんを、こんなのから、やめさせてあげるよ」との言葉を投げかけます。そこに続くのが以下の表現です。

円佳は、初めて自分の言葉と心が一致した気がした。(P.269の19行目)

 この後に、翼が受験を続けるのかどうか、物語の結末についてここで記すことはできませんが、不安にさいなまれて心が壊れかけた円佳が、初めて本当の気持ちを言葉にすることができたこの瞬間に、円佳の心が再生の兆しを見せたと言うことができるでしょう。

 われわれ中学受験鉄人会のプロ家庭教師は、常に100%合格を胸に日々研鑽しております。ぜひ、大切なお子さんの合格の為にプロ家庭教師をご指名ください。

メールマガジン登録は無料です!

頑張っている中学受験生のみなさんが、志望中学に合格することだけを考えて、一通一通、魂を込めて書いています。ぜひご登録ください!メールアドレスの入力のみで無料でご登録頂けます!

ぜひクラスアップを実現してください。応援しています!

ページのトップへ