No.1291 『ブラタモリクイズ!佐賀~佐賀の発展は“水”にあり?~編』

 NHKの『ブラタモリ』と言えば、中学受験生の親御さんならピンとくると思いますが、近年の中学入試では、社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。大手進学塾の保護者会で『ブラタモリ』の視聴を勧められた方も多いのではないでしょうか。

 確かに、訪問する土地の地形や歴史を、テーマに基づいて地元の専門家と深堀りしていく番組構成は秀逸で中学受験生にぜひ見てもらいたい内容です。

 しかし、もったいないと感じるのが、内容が盛りだくさんなだけに番組を見た後そのままにしてしまうと、知識がすり抜けていく可能性がとても高い点です。

 そこで、鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものをクイズ形式でお伝えしていこうと思います。初回の今回は3月18日に放送された佐賀編についてです。

Q1.現在の佐賀県が含まれる旧国名は?
A1.肥前(ひぜん)

 肥前は佐賀県と、壱岐・対馬を除く長崎県の旧国名です。

Q2.「薩長土肥」とは何のことでしょうか?
A2.江戸時代末期に、明治維新を推し進めた4つの藩、「薩摩藩」、「長州藩」、「土佐藩」、「肥前藩」の総称
Q3.佐賀城の城下町だった地域では、武家屋敷を水路が囲むような構造になっていました。広く平らな地形だからこその、その理由とは?
A3.排水のため。

 現在の佐賀市を中心とした地域は海から約20㎞離れていても標高5m以下と低く平らな広い土地でした。広大な平野の背後には険しい山が迫り、山に振った雨が一気に平野部に流れ込みます。
 高低差がないことで洪水が起きやすい地形のため、たまった雨水を排水するために多数の水路がありました。

Q4.佐賀県・長崎県・熊本県・福岡県に囲まれた大きな内海の名称は?
A4.有明海
Q5.Q4の内海は日本一の□□差がある。空欄に入る漢字2文字は?
A5.干満

 有明海の特徴は干潮と満潮の差で、最大6mと日本一の干満差があります。

Q6.佐賀に流れていた「江」と呼ばれる水路が、有明海の干満差を利用して果たしていた役割とは?
A6.有明海と城下町を結ぶ舟運(しゅううん)となった。
※舟運:船で荷物を運んだり交通したりすること。

 佐賀には、泥がない「堀」と泥がたまっている「江」という2種類の水路がありました。佐賀城の城下町の西端と東端に江があり、どちらも町の外の有明海と直接つながっていました。満潮時には江に有明海の海水が入り込むため、江に泥がたまっていたのです。
 そんな有明海の干満差を利用して、満潮時には海から町へ、干潮時には町から海へと船が江を進むと、流れに乗って船が進めやすくなるのでした。
 佐賀ならではの干満差を使って、江を利用した江戸時代、九州各地と米や材木、たばこなどの物資のやりとりが行われ、佐賀が発展したと言われています。

Q7.有明海に臨む地域に、かつて漁港の防波堤だったコンクリートの塊が、頭だけ見せている場所があります。頭だけ見せているのはなぜか?
A7.海からの泥の堆積で、漁港が埋まったため。

 かつて漁港の防波堤は2m以上ありましたが、現在では50cmほどしか見えていません。それは干満によって海岸線に海の泥が堆積し、干満をくり返すことで満潮時に巻き上げられた海底の泥が、川や江をさかのぼって、内陸にまで堆積したためです。
 こうした干満のくり返しによって佐賀平野がつくられました。

Q8.佐賀平野は泥でできていて、軟弱で大量の湿気を含んでいます。住民たちは、そんな佐賀平野をどのように克服したのでしょうか?
A8.水田をつくった。

 代表的な例が、鎌倉時代にルーツを持つ「姉川」という集落です。湿地は稲作に向いているという特徴を生かすために、まず水路を掘って水を抜き、掘った土を盛って住むための土地をつくりました。そして周りを水田に変えて行ったのです。佐賀平野全体で同様の集落が150ほどあります。これらの集落は、泥できた平野を実り豊かな土地に変えたのです。
 その後、南北朝時代に姉川集落は「姉川城」へと進化しました。周りに山がないため、城を守るには水しかなく、水路は堀として活用されました。150の集落うち30が城へと進化したのでした。

Q9.佐賀城の城下町には、城の堀よりも高い位置に水路があります。この水路は城下町でどのような役割を果たしていたのでしょうか?
A9.上水道としての役割。
※上水道:飲料水を提供する水道のこと。

 江戸時代、佐賀は2万人以上が暮らす城下町でした。そこに流れる「多布施川」は人口の川で、掘よりも高い位置につくられ、「井樋(いび)」という水門を通って、多布施川から堀にきれいな水が供給されました。高低差があることで、堀の水が川に逆行することがありません。多布施川の水は上水として、また堀への水の供給源として使われていたのです。
 多布施川は、堀だけでなく城下全対に飲み水や生活用水を供給する上水道でした。城下に張り巡らされた多数の水路の水は、1本の人口の川「多布施川」から供給されていたのです。多布施川は町の対角線を横切るように細かく曲がりながら水を供給していました。

Q10.多布施川は、特に城のあたりで細かく曲がっていましたが、その理由とは?
A10.城の防衛のため。

 城の周りで川が細かく曲がっていることで、侵入者が城の本丸に近づくためには、川を3回も渡る手間がかかってしまいました。
町全体にきれいな水を届けるだけでなく、防衛の役割を果たしていた人口の川、多布施川。人口川という水路に複数の機能を持たせることで、高度な都市設計が行われていたのです。

Q11.幕末の佐賀では反射炉を使った大砲づくりが進められていましたが、大砲づくりと水はどのように関係していたでしょうか?
A11.大砲の穴開けの動力として水車が使われていた。
※反射炉:木炭などを燃やして、その熱をアーチ状の天井に反射させて金属を溶かす施設

 幕末に欧米列強の脅威にさらされた日本では、鉄の大砲をつくるため各地に反射炉が建設されていました。反射炉づくりにいち早く取り組んだのが当時の佐賀藩主・鍋島直正で、鍋島は日本で初めて実用できる反射炉を完成させました。
大砲には弾が通過する穴がありますが、その穴を開けるために、大砲の先に鋼のドリルを据えて、大砲が回転しながら固定したドリルに触れると大砲に穴がくり抜く、という仕組みが使われていました。大砲づくりで最も時間がかかる、この「穴開け」の動力として人工河川から水を引き込んで水車をまわしていたのです。佐賀藩で城下町をつくるためにすでに人口の川があったことが、大砲づくりで有利に働きました。
 さらに作成した大砲を運搬するのに、有明海と直接つながる江が使われたのです。
こうした水を使った軍力の整備が進んだことで、幕末維新を動かした「薩長土肥」という4つの有力な藩の一角に佐賀藩が入ることができました。

 このように、佐賀の発展は水と人々との結びつきによってもたらされたのでした。

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