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ホームメールマガジン宝箱ブラタモリクイズ!No.1330 『ブラタモリクイズ!大阪・梅田~カオスな梅田はどう生まれた?~編』

No.1330 『ブラタモリクイズ!大阪・梅田~カオスな梅田はどう生まれた?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は6月10日に放送された大阪・梅田編です。

 JR大阪駅を中心に駅が7つも集まる、西日本最大の交通ターミナルである梅田は、大阪一の繁華街で、今も再開発が進められている場所です。そんな梅田ですが、実は複雑でごちゃごちゃとしたカオス(無秩序で、さまざまな要素が入り乱れた状態)な街なのです。江戸時代の梅田が人目につかない場所だったことを物語る江戸時代の浄瑠璃作品とは?「歯神社」のご神体が示す梅田の地理的特徴とは?大阪駅は梅田につくられる予定ではなかった?大阪駅にカオスを生み出した梅田ならではの地質の特徴とは?カオスな街・梅田が生まれた歴史、梅田ならではの地理的特徴を探って行きましょう!

梅田の位置

 カオスな街、梅田はもともとどのような場所だったのでしょうか。
 JR大阪駅から歩いて5分ほどの路地裏に神社があります。露天神社(つゆのてんじんしゃ)という神社は、今では恋愛成就を祈願する神社として知られていますが、江戸時代に作られたある作品の舞台だったのです。

露天神社の拝殿 画像引用元:ウィキペディア

Q1. 露天神社は浄瑠璃『曾根崎心中』の舞台と言われています。この作品の作者は誰でしょうか?
A1.近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)

 近松門左衛門は江戸時代の元禄文化を代表する人形浄瑠璃の脚本家です。『曾根崎心中』は近松門左衛門の代表作で、はつと徳兵衛という若い2人の男女が起こした実際の心中事件を題材に作られました。その心中の舞台となったのが露天神社だったのです。『曾根崎心中』はその後、歌舞伎の演目や映画にもなりました。

露天神社の境内にある「はつ」と「徳兵衛」のブロンズ像 画像引用元:ウィキペディア

 実際に心中が行われたということは、当時この辺りは人目の少ないひっそりとした場所であったと考えられます。
 江戸時代の地図を見ると、現在の梅田の辺りは、田んぼが一面に広がっていました。ほんの川沿いにだけ町があり、露天神社は町はずれの際にあって、まさに人目につかない場所だったのです。
 
 それでは、なぜ江戸時代の梅田はそのような寂しい場所だったのでしょうか?その理由を知るヒントとなるものが、大阪駅近くにある「歯神社」という神社の中に見られます。
 歯神社の中には、ご神体の石が今も置かれています。この石を削って、煎じて飲むと歯痛が治ると言われていました。この石が、江戸時代の梅田周辺の地理的な特徴を知る大きなヒントとなります。

Q2.「歯神社」に置かれた石は、もともとあった大きな石(巨石)の一部です。この巨石は何のために使われていたでしょうか?ヒントは、この神社の御利益である「歯痛止め」が、「歯止め」という言葉から転じたものであることです。
A2.川の氾濫であふれた水を歯止めするため。

 この地域には大きな川が流れていましたが、その川が度々氾濫を起こしていました。それを歯止めするために使われていた巨石の一部が、現在の歯神社のご神体である石なのです。
 かつて梅田は湿地帯であったため、人が住まない寂しい場所でした。「梅田」という地名も「埋め田」の当て字であるという説もあります。
 今では駅や道路が密集している梅田ですが、江戸時代には心中が気づかれないような寂しい場所だったのです。

現在(2018年)の西梅田 画像引用元:ウィキペディア

Q3.明治時代になってあるものができたことが、現在の梅田のカオスを生み出すきっかけとなりました。そのあるものとは何でしょうか?
A3.鉄道

大阪駅の初代駅舎(1874年~1899年)の西梅田 画像引用元:ウィキペディア

 明治7年(1874年)、梅田に大阪駅が開業しました。そしてこの鉄道開業こそが梅田のカオスのはじまりと言えるのです。
 そもそも、なぜ当時の梅田のような人も住まないような場所に大阪駅がつくられたのでしょうか?

 大阪駅から南に1kmほどに堂島川という川があります。この川の周辺の堂島という場所が、梅田に大阪駅ができた理由に深く関係しています。
 江戸時代の堂島川の周辺には、各藩の「蔵屋敷」が多数立ち並んでいました。蔵屋敷とは、年貢米や特産品を集積・販売するためにつくられた建物のことです。堂島は年貢米や特産品を運んだ船が行き交う、大阪の物流の拠点だったのです。
 この場所が明治時代になると大きく変化します。鉄道を通すための測量などを行う場所が堂島に作られていた記録が残っていることから、実は大阪駅はこの堂島辺りにつくる計画があったと考えられているのです。明治時代になって蔵は使われなくなり、町にも近い堂島は、鉄道の輸送と水運をつなぐ格好の場所でした。
 ところが、実際に駅ができた場所は、堂島ではなく梅田だったのです。
 
Q4.大阪駅が堂島ではなく、ほとんど人が住んでいなかった梅田に建てられた理由とは何でしょうか?下の航空写真の黄色が「堂島案」、水色が「梅田案」であることをヒントに考えてみましょう。

青の四角が「梅田」、黄色の四角が「堂島」です。

A4.列車の方向転換に手間がかかったため。

 大阪駅は大阪と神戸・京都を結ぶ目的で建設されました。堂島に駅が建てられた場合、神戸方面から駅に入った線路は「V字型」に折り返して京都方面に進むことになります。そこで方向転換をするためには、列車の先頭についた蒸気機関車を後方に付け替えなくてはなりません。
 堂島で蒸気機関車の付け替えがないように線路を敷こうとすると、周辺の街を広い範囲で壊さなくてはなりませんでした。
 そのため、ほとんど人が住んでおらず、スムーズに列車を通すことができる梅田が選ばれたと考えられています。

 ところが、この梅田に駅をつくったことで、カオスな梅田が生まれることになってしまったのです。
 いよいよ、梅田の中心地「大阪駅」に足を踏み入れます。

大阪ステーションシティ 画像引用元:ウィキペディア

 大阪駅の構内を歩くと、「高低差」が小刻みにあることがわかります。もともと平坦な地に大阪駅はできたはずなのに、なぜそのような高低差が生まれたのでしょうか?

Q5.大阪駅の構内に小刻みに高低差があるのはなぜでしょうか?ヒントは地面に関する漢字4文字の言葉です。
A5.「地盤沈下」のため

 大阪駅の高低差は意図的につくられたのではなく、「地盤沈下」によって生まれたのです。
 昭和初期から30年代にかけて、大阪市内で起きた地盤沈下により、道路が傾いたり、ビルに亀裂が入るなど、街のあちこちに被害が生じ、大阪駅にも大きな影響がありました。今でも駅のホームには、1mくらい沈下した地面に「かさ上げ」をした形跡が見られます。

 大阪駅にある無秩序な高低差。その原因となった地盤沈下はなぜ起きたのでしょうか?

 地盤沈下が起きた理由は、来年からホテルやオフィスなどの複合施設が段階的にオープンする「グラングリーン大阪」という再開発エリアで建設中のビルの地下に見られます。
 
Q6.再開発エリアで建設中のビルの地下20m付近には、地下の粘土層が見られます。この粘土層は水分を多く含み、さらに貝の化石が見られます。この地域はかつてどのような場所だったのでしょうか?
A6.

 今から5000年前の縄文時代、大阪市一帯は海で、梅田も海の中にありました。粘土の層は海であった時代に堆積したもので、「梅田粘土層」と呼ばれています。

 梅田の地下の断面図は、深いところから「天満(てんま)砂れき層」「梅田粘土層」「砂層」の順に層が重なっています。この梅田粘土層が地盤沈下と大きく関係しているのです。

Q7.高度経済成長期に梅田で、なぜ地盤沈下が多く生じたのでしょうか?
A7.天満砂れき層から地下水を大量に引き上げたため。

 昭和30年代の高度経済成長期に梅田が急速に発展していく中、ビルの冷房用や工業用などで、大量の水が必要になっていきました。そのため地下水を含む天満砂れき層から水が大量に引き上げられました。この水のくみ上げによって、天満砂れき層の上にある梅田粘土層に含まれる水分もじわじわと下に抜けて、粘土層のかさが減ったことから、大きな地盤沈下が起きたのです。
 水を抜いた場所から離れたところでは、沈下しないところも出てきます。それにより、場所によって地盤沈下が起こるところと起きないところが出てきました。
 さらに、大阪駅では駅舎や電車の重みが加わったことで、無秩序な高低差が生まれました。

 大阪駅の周辺では、固い地盤の砂れき層まで杭を打ち込むことで、建物の沈下を食い止めました。さらに地下水の取水規制をしたことで、梅田の地盤沈下は昭和40年代ころには収まりました。
 とはいえ、梅田粘土層はとてもやわらかく、今でも建物を建てるにはやっかいな存在となっています。土の中がやわらかいので、掘るとまわりの土が内側に倒れてきてしまいます。それを抑えるために、粘土にセメントを混ぜて固くして、鉄骨を立て、突っ張り棒を入れて、土が内側に倒れてこないようにするといった対策が行われています。
 
 大阪駅に無秩序な高低差というカオスを生んだ「梅田粘土層」。梅田が今後も発展を続けるためには、このやわらかい粘土層と向き合って行かなければなりません。

 大阪駅の南東側に最もカオス的な場所があります。
 それが「梅田地下街」です。
 大阪の7つの駅を結ぶ日本一複雑と言われるこの地下街は、いろいろな方向に複雑に道が延びていて、歩いていて迷ってしまうので、通称「梅田ダンジョン(迷宮)」と呼ばれています。
 地下街にある広場では、そこに通じる4つの道の向きのうち2つが「V字」になっています。
 大阪駅を背にして「V字」になっているこの道が、地下街がカオスになったカギとなります。

 そこで地上に上がってみて、大阪駅を背にするとやはり道がV字になっています。つまり、地下の道は地上に合わせてつくられているのです。
 地上の道は、なぜ複雑になったのでしょうか。
 大阪の旧市街の北西の方角につくられたのが大阪駅でした。当時、駅周辺には何もなかったので、旧市街から駅に斜めに道がつくられました。そしてその後、様々な方向から次々と道がつながれたことで、複雑な道になったと考えられています。

 それでは、なぜ地上だけでなく地下にも複雑な道をつくる必要があったのでしょうか?

Q8.高度経済成長期に大阪駅周辺で地下街をつくる必要性が急速に高まりました。人の流れを地上から地下に移さなくてはならなかった原因とは何でしょうか?
A8.交通量が急速に増えたこと。

 昭和30年代の梅田周辺は交通量が急速に増えて、交通渋滞や事故が多発しました。そこで、市電を廃止して地下鉄にして、地下街をつくって人の流れを地上から地下に移したのです。
 その後、地下街は新しくできた地下鉄の駅や商業ビルともつながり、どんどん広がっていきました。

 地下街は今年3月に大阪駅に新しくできた改札口にもつながっています。新しいホームも完成し、大阪駅から関西国際空港や和歌山の白浜に直通で行けるようになりました。
 その改札口には、顔認証の改札口という、最先端技術が導入されています。

顔認証機能付ICカード専用改札機 画像引用元:ウィキペディア

 地下街は現在開発中の、梅田粘土層があるビル群にもつながろうとしています。何もなかった梅田に大阪駅が開業してから150年。今も発展が続く梅田において、様々なカオスがその発展の記憶となっています。

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