No.1341 『ブラタモリクイズ!木曽三川~暴れ川vs.人間 激闘の歴史とは?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は7月1日に放送された木曽三川(きそさんせん)編です。

 「木曽三川」と呼ばれる三本の大河が流れる、日本有数の大きさを誇る濃尾平野。水が豊かで肥沃なこの地では古くから米づくりが盛んで、人々は川と共に生きてきました。暴れ川と言われる三本の川と人間の間にどのような激闘の歴史があったのでしょうか。江戸時代に行われた困難を極めた治水工事の内容とは?三本の暴れ川を西に集めた地形的特徴とは?家や水田を守るために集落まるごとを囲む構造とは?集落の中の敵と闘うための究極の排水術とは?暴れ川と人間の激闘の歴史をひもといて行きましょう!

 名古屋から西へ20㎞の岐阜県海津市。ここは木曽川・長良川・揖斐(いび)川という三本の川が隣り合って流れている場所です。この三本の川を総称して「木曾三川」とこの地域では呼んでいます。

木曽三川の位置
紫矢印の先が木曽川、青矢印の先が長良川、赤矢印の先が揖斐川です。

 木曽三川はすべてが全長100㎞を超える一級河川です。それぞれの水源は全く別のところにあるのですが、なぜか下流では三本が一か所に集まっています。
 今は三本がそれぞれ独立して流れていますが、かつては全く違う流れ方をしていました。江戸時代の絵図を見ると、三本の川がお互いに絡み合うように流れていたことがわかります。
 この絡み合いによってこの地域は長年水害に悩まされてきました。多い時は50年で75回もの洪水に襲われたように、この地域は、江戸時代から暴れ川が氾濫をくり返す「洪水常襲地帯」だったのです。

多度山(たどやま)から望む木曽三川(手前から揖斐川、長良川、木曽川) 画像引用元:ウィキペディア

 暴れ川vs.人間の闘いとはどのようなものだったのでしょうか。
 まずは江戸時代最大の激闘の痕跡が見られる場所に向かいます。
 
 海津市には治水神社(ちすいじんじゃ)という神社があります。この神社には薩摩藩の家老、平田靭負(ひらたゆきえ)及び薩摩藩士約80名が祭られています。この場所は、江戸時代の中期に薩摩藩によって大規模な治水工事が行われた場所なのです。

治水神社 画像引用元:ウィキペディア
薩摩藩の家紋が掲げられています。

Q1.関江戸時代に幕府の命を受けた薩摩藩によって、木曽三川下流域の治水工事は行われました。それは堤防をつくるものでしたが、どのような目的で堤防をつくったでしょうか。
A1.川の流れを分けるため。

 薩摩藩によって行われた治水工事は「宝暦(ほうれき)治水」と呼ばれています。水量の多い暴れ川を相手に人力での重労働であったうえ、はやり病も蔓延してしまったことで、90人もの犠牲者が出る難工事となりました。
 木曽三川には、三本の川の水面の高さが違うという地形的な特徴があります。揖斐川よりも東を流れる長良川の方が高い所を流れ、長良川の東の木曽川は、さらに高い所を流れています。

木曽三川高低差のイメージ 

 この高さの違いが、江戸時代にこの場所に洪水をもたらす大きな原因となりました。かつて木曽川と長良川は一度合流してさらに進んだところで揖斐川にまで流れ込んでいたのです。
 高さの違う意川が合流して低い方に流れ込むという構造であったため、ひとたび川が増水すると、木曽川と長良川の水は低い揖斐川に押し寄せて、大氾濫を起こしました。
 これを防ぐために、川の流れを分ける(分流する)必要があったのです。工事の後の絵図を見ると、川と川の間が堤防で仕切られ、流れが分けられているのがわかります。
 もともと複雑にからみ合っていた三本の暴れ川が現在のような姿になった礎には、江戸時代の人々の激しい闘い歴史があったのです。

宝暦治水碑 画像引用元:ウィキペディア

 それでは、なぜ三本もの大きな暴れ川が、この場所に川が集まってしまうのでしょうか。
 その答えを探る上で重要なものが、揖斐川のさらに西にあります。木曽三川の西に、標高800m程の山々が続く「養老山地」があります。
 三本の暴れ川が集まる理由には、この養老山地の成り立ちが大きく関わっているのです。

 治水神社から北西に10㎞の山あいの地へと進むと、江戸時代この辺りを治めた高須藩松平家の菩提寺である「臥龍山行基寺(がりょうざんぎょうきじ)」があります。

行基寺本堂 画像引用元:ウィキペディア

 その境内に、山の岩盤がそのままむき出しになった部分を含む石垣が見られます。この岩盤の岩石は「堆積岩」です。堆積岩とは、海の底に堆積した砂や泥などが長い年月をかけて固まってできた岩石のこと。養老山地は主に、砂岩などの堆積岩でできているのです。

Q2.行基寺の石垣に見える岩盤は斜めになっています。なぜ斜めになっているのでしょうか?
A2.堆積した後に大きな力が加わったため。

 砂や泥はもともと海底に水平に堆積します。それが地表上に見える際に斜めになっているということは、堆積した後に大きな力が加わったと考えられます。
 ここから、養老山地は隆起してできた山であることがわかります。

養老山地の周辺図 画像引用元:ウィキペディア
※黄色部が養老山地、赤線部が濃尾平野です。

 海底の岩石が巨大な力を受けて隆起することでできた養老山地の成り立ちが、この地域に木曽三川が集まる理由と、どのように関係しているのでしょうか。

 行基寺から一望できる景色の先には大都市・名古屋があります。よく見ると、名古屋の方が行基寺のある場所より標高が高くなっています。

Q3.濃尾平野は西側の養老山地に向ってだんだんと低くなっているという地形的な特徴があります。この地形を生み出したものとは何でしょうか。
A3.断層

 養老山地と揖斐川の間に「養老断層」という断層があります。この断層の働きが、濃尾平野が西に向かって低くなる理由と深く関わっているのです。
 断層によって片方が上に隆起し、もう片方が下に沈降するというメカニズムが働いた結果、隆起してできたのが養老山地、沈降したのが濃尾平野となったのです。
 このように動く断層を「逆断層」と言います。

逆断層のイメージ図 画像引用元:文部科学省研究開発局地震・防災研究課 地震調査研究推進本部事務局HP

 断層を境に東側が沈み込むと、その場所を木曽三川が運ぶ大量の土砂が埋めて行きます。この沈み込みが何度もくり返され、現在沈み込んだ深さは約2000mにまで及んでいます。
 この沈み込みが、1000年におよそ1mという日本屈指の沈降速度で進むため、濃尾平野は西側が低くなってしまうのです。このように、濃尾平野が西に傾く動きを「濃尾傾動(けいどう)運動」と言います。
 濃尾傾動運動は常に継続しているわけではないため、日常生活では気づくことはありませんが、濃尾平野を流れる木曽三川が河口に近づくにつれて養老山地の方向へと偏り、集まって行くのは、濃尾傾動運動のためであると言われています。

 断層の働きが暴れ川を西へ集め、この地域を比類のない「洪水常襲地帯」にしたのです。
 それでは、この暴れ川が集まる地域に、なぜ人が住むことができたのでしょうか。
 いよいよ、本格的な「暴れ川vs.人間」の激闘の始まりを探って行きます。

 行基寺から北東に8㎞、揖斐川と長良川に挟まれた低地へと進みます。この辺りは、まだ暴れ川が縦横無尽に流れていた時代に人が住み始めた場所なのです。
 そこに千代保稲荷神社(ちよほいなりじんじゃ)という神社があります。「おちょぼさん」の愛称で親しまれ、神社の参道には120程の店が並び、多い時は年間20万人の参拝客でにぎわいます。
 暴れ川が集まる低地にどうやって人が集まることができたのか。その答えはこの辺りの地形に隠されています。
 神社の裏へ回ると、神社が高台になっていることがわかります。さらに高くなっているところへと進み、一番高いところまで行くと、そこは標高8mの須脇山(すわきやま)と呼ばれる山の頂きに達します。たった8mの高まりでもこの地域では山とされています。

Q4.須脇山の高まりはどのようにしてできたでしょうか?ヒントとして、この辺りの地質は、粒の細かい砂となっていること、そしてかつてこの地域に川が流れていたこと、そしてこの地域が強い風が吹く場所であることが挙げられます。
A4.川が堆積させた砂の高まりが生まれ、その高まりの上に強い風が吹き、細かい砂を巻き上げることで、高さ8mの砂丘が生まれた。

 戦国時代までは、現在の須脇山の地域を木曽川からの流れが通っていました。そして氾濫すると大量の砂を堆積させていたのです。すると砂によって「自然堤防」という高まりができます。さらにその上にこの地域特有の強い風が細かい砂を巻き上げ、高まりの上に積もらせました。こうして高さ8mの砂丘が生まれました。
 このような地形を、川のほとりにできる砂丘のため「河畔砂丘(かはんさきゅう)」と言います。
 この河畔砂丘は、いくつかの条件がそろわなければできない非常に珍しい地形のため、日本でもこの木曽川流域と、北上川、利根川の周辺地域でしか今は見られません。

 こうして暴れ川が運んだ砂が堆積してでできた小高い土地に人々が住み始め、低地には水田が作られました。度重なる川の氾濫が山の豊富な養分を低地に運び、米づくりにもってこいの肥沃な土地が生まれたのです。

 もともと洪水に弱い低地の水田をどのようにして暴れ川から守ったのでしょうか。すぐ近くの公園の滑り台の頂上に上ると、その答えがわかります。
 滑り台から北側に、堤防が見えます。 

Q5.北側に見える堤防は、かつてこの地にあった集落を囲むためにつくられたものです。洪水から家や水田を守るために、集落の周りを堤防で囲んだ地域(構造)を何といいますか?
A5.輪中(わじゅう)

 輪中をつくる堤防は「輪中堤」と言って、この地域に見られる堤防は江戸時代以前に築かれた輪中堤の痕跡です。
 輪中は、暴れ川から家だけでなく水田も守るために生み出された究極の策でした。
 江戸時代の絵図を見ると、堤防で囲まれた輪中が点在しています。かつて木曽三川流域には、約80もの輪中がひしめきあっていたと言われています。

高須輪中 画像引用元:ウィキペディア
赤矢印は輪中の中心部を流れる大江川です。

 これほど大規模に輪中がつくられた理由のひとつは、江戸時代に日本の人口が増え、米の需要が高まったことにあります。水害さえ防ぐことができれば大量の米が収穫できるこの地域に、京都や近江などから豪農(ごうのう:多くの土地を所有する富裕農家のこと)たちが移り住み、江戸時代に盛んに低湿地を開拓していったのです。
 輪中の建造資金も豪農たちが出したものでした。

 そんな豪農の暮らしぶりを今でも感じられる場所が、千代保稲荷神社の南側にあります。

 早川家という豪農の住宅が今も残されています。早川家の初代は室町末期に滋賀からこの地を開拓するためにやってきました。
 豪農早川家では、暴れ川から身を守るために、まず母屋が1m以上地面から上がったところにつくられています。
 さらに収穫した米を貯蔵するための、石垣が2m以上もの高さの蔵があります。大事な米を守るため、蔵が母屋よりも高くつくられていたのです。

Q6.蔵には一家族が食べる分としては多すぎる量の米が備蓄されていました。それは何のためだったでしょうか?
A6.小作人たちの分まで備蓄するため。

 蔵の中では、米を貯蔵する場所がさらに高くなっていて、そこに多くの米を備蓄していました。それは
小作人たちの分まで蓄えていたためでした。
 多くの小作人を束ねる豪農は、水害に備えて蔵を高くつくって、自分たちの分だけでなく小作人たちの分の米まで備蓄していたのです。
 さらに蔵の横の高台には、小作人のための非難場所まで設けられていました。
 輪中ではリーダーが中心に互いに助け合って、暴れ川と闘っていたのです。

 輪中の中で協力し合い、暴れ川という外敵と闘った人々でしたが、敵は輪中の中にもいました。
 その敵の正体を探るため、輪中の中心部へと向かいます。

Q7.輪中の中には、中心部を流れる「大江川」(輪中の画像の赤矢印の先です)がありました。この川が果たした役割とはどのようなものだったでしょうか?
A7.排水すること。

 輪中の中心部を流れる大江川は、輪中の中の水を外に流すために整備された排水路でした。
 雨が降ると輪中の中に水がたまり、そのままでは稲が育ちません。輪中の中に潜む敵とはこの「たまり水」だったのです。

 しかし堤防で囲まれた輪中から外へ水を出すには大江川だけでは十分ではなく、さらなる工夫が必要でした。
 排水のためにどのような工夫がなされていたのでしょうか。
 それがわかるものがすぐ近くに保管されています。「門樋(もんぴ)」という排水設備です。

Q8.門樋は「観音開き」という構造で、外側にしか開かなくなっています。それは何のためでしょうか?
A8.川の逆流を防ぐため。

門樋の観音開きのイメージ

 門樋は江戸時代から明治時代にかけて輪中の排水路の出口に仕掛けられていました。この門樋が外側にしか開かない構造になっていたのは、川の逆流を防ぐためでした。
 輪中の周りの川の水位が低いときは、扉が開き、中の水を外に流し出します。逆に周りの水位が高くなると扉が閉まり、逆流を防ぐ仕組みとなっていたのです。

 ところがこれだけ大がかりな排水設備をもってしても、排水が難しくなってしまう問題が起こりました。
 かつて木曽三川は平野を自由に流れて、度々氾濫しては土砂を広く堆積させていました。そこに輪中堤を築いたことで大量の土砂が行き場を失ってしまい、川底に土砂がたまって行きました。
 これによって輪中の周りの川の水位は上がっていくことになってしまいます。
 そうなると門樋が閉じっぱなしの状態になり、排水が難しくなることで、輪中の低い土地が水浸しになってしまうという事態を招きました。
 こうした事態にも人々はあきらめることなく、何とか米をつくれないかとさらに知恵を凝らして策を生み出しました。
人々が生み出したその策がすぐ近くで見られます。

Q9.水浸しの土地でも米をつくるために、人々はどのような工夫をしたのでしょうか?
A9.土を掘って高い畝(うね)を作り、その上で稲作を行った。

 排水の状況が悪い中にあって人々は、土を掘って高い畝を作り、その上で稲作を行ったのです。こうしてできた水田を「堀田(ほりた)」と言います。

堀田(海津市歴史民俗資料館) 画像引用元:ウィキペディア

 江戸時代後半から木曽三川下流域で堀田は広まって行きました。この堀田は耕作面積を半分にしてでも米をつくる、という輪中に住む人々の執念が生み出した策だったのです。
 今から半世紀くらい前までこの地域に堀田は広がっていました。

 現代では電気や燃料で動くポンプによって、排水の状況が劇的に改善しました。
 大型の排水機場(1か所で25mプールの水を5秒で排水する能力を持つ)が設けられ、水田を大きく広げることが可能になったのです。

池田山(いけだやま)から望む濃尾平野の北側 画像引用元:ウィキペディア

 今なお米づくりが盛んな木曽三川下流域。そこに広がる穏やかで豊かな風景は、人々が長い歴史をかけて暴れ川と繰り広げてきた、一進一退の激闘の末に勝ち取ったものなのです。

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