No.1364 『ブラタモリクイズ!燕三条~燕VS.三条 モノづくりの町 発展のカギとは?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は9月9日に放送された燕三条編です。

 新潟県の燕三条。燕市は日本が世界に誇る洋食器の町、一方の三条市は刃物などの鉄製品の町。2つの町を合わせた燕三条という名で知られ、モノづくりの町として発展してきました。度重なる信濃川の氾濫が燕三条をモノづくりの町にした?全国から鉄製品の発注を取り付けた凄腕三条商人の営業ノウハウとは?燕を世界に知られる洋食器の町にしたきっかけは海岸に転がる光る石?職人たちの心をリフレッシュさせた、格式高い神社の中にある意外なものの正体とは?燕三条をモノづくりの町として発展させた地形的な特徴、歴史的な背景について探って行きましょう!

燕三条の位置 赤丸が燕市、青丸が三条市

 新潟県の燕三条。実は「燕三条」という地名はなく、JR燕三条駅を境に西側の燕市、東側の三条市という別の市が合体した名前が「燕三条」なのです。駅が市の境界線の上に建っているため、市の境は駅の中で入り組んでいます。

JR燕三条駅 画像引用元:ウィキペディア

 また、北陸自動車道のインターチェンジの名前は「三条燕」で、このインターチェンジは昭和53年に、駅は昭和57年につくられたので、インターチェンジの方が駅より先に出来ていました。それでいて三条燕インターチェンジは燕市にあるといった複雑な位置関係になっているのです。
 燕三条で有名なものと言えば「洋食器」です。ノーベル賞の晩餐会で使われているカトラリー(食事の際に使うナイフ・フォーク・スプーンなどの総称)や、今年5月に行われた「G7新潟財務大臣・中央銀行総裁会議」の関係者に配られたお土産など、これらの洋食器はすべて燕市で作られています。

ノーベル賞晩餐会で使われているカトラリー 画像引用元:燕市産業資料館HP

 まずは、なぜ「モノづくりの町」燕三条が生まれたのかを探るために、三条市へと向かいます。

 燕三条のモノづくりは、もともとは三条市が発祥と言われています。
 越後平野を流れる信濃川は、かつて頻繁に洪水を起こしていました。約1000年前のこの辺りを描いた絵図で、人々が居住したいたはずの場所が海のように描かれています。

Q1.約1000年前の絵図で、本来は人々が居住していた平野部が、海のように描かれていたのはなぜでしょうか?
A1.信濃川の氾濫が多く、川の流れが氾濫の度に変わっていたため。

 あまりに信濃川の氾濫が多いため、川が固定されていないことで、居住地である平野部が地図上に描かれなかったのです。
 かつては3年に1度の割合で氾濫を起こしていた信濃川。それだけ川の氾濫があると、平野があるのに米をつくることができません。
 そこで、米に代わるものとしてモノづくりが始められたのです。

 ちなみに当時の絵図で、燕市は海のように描かれた地域にあり、三条市の方が高い位置にありました。燕市の方が川の氾濫を受ける危険性が高かったため、三条市の方が先に発展しました。

 次に、ある橋の上へと移動します。
 そこでは、信濃川と五十嵐川(いがらしがわ)という川が合流しています。

信濃川に合流する五十嵐川 画像引用元:国土交通省北陸地方整備局HP

 五十嵐川の東側、山の向こう側には福島県の会津がありました。江戸時代にかなり大きな城下町であった会津から、モノづくりの技術が伝わってきたと言われています。
 川が交わった場所にある三条の町には、技術以外のものも運ばれてきました。五十嵐川からは燃料となる木炭が、日本海に通じる信濃川からは原料となる鉄を集めることができました。
 そんな三条で作られたのが「和釘」です。
 江戸時代の初めに、三条で和釘がつくられ始めた理由は江戸の町にあります。

Q2.江戸時代の初めに三条で和釘づくりが始まった背景として、当時の江戸の町はどのような状況にあったでしょうか?
A2.建設ラッシュだった。

 当時、江戸の町で建設ラッシュが起こり、そこで必要となったのが和釘だったのです。
 江戸の町づくりに必要だった和釘から始まった三条のモノづくり。その後、三条で作られた様々な鉄製品は、江戸だけでなく全国各地で使われるようになって行きました。

 その理由は一体何だったのでしょうか?
 それがわかる場所へと移動します。

 かつて三条で製品の流通を担っていた「三条商人」の邸宅だった家へと向かいます。この三条商人こそが三条のモノづくりに欠かせないキーマンだったのです。
 そこにあったのは、「鎌形帳(かまがたちょう」。様々な鎌の形が正確に書かれたものです。

Q3.鎌形帳には鎌の形以外に、水戸や上州といった地名が書かれていました。このことから、鎌形帳はどのような用途で使われていたと考えられるでしょうか?
A3.全国各地で求められる鎌の形を記録すること。

 鎌形帳は三条商人が全国へ行って、鎌の形を集めた記録です。三条商人が全国津々浦々行く先々で求められている製品の形を調査して書き写したものが鎌形帳だったのです。
 そこで全国から注文が来たら、職人たちに情報を与えて安く製品をつくってもらうことができました。
 それによって三条の商品は、全国から注文が届き、市場が全国へと広がって行ったのです。

 各地で流行する製品を調査し、安くつくって販売した三条商人。その活躍のおかげで三条の鉄製品は全国に広まって行きました。

 集めた情報をもとに、製作を依頼して生まれた町が燕でしたが、燕の人はかなり安い値段で三条商人に買いたたかれていたことに不満を持っていました。
 
 しかし、江戸時代の中頃にあるものが見つかったことで、燕は三条に頼らず独立することができたのです。
 それがわかる場所、約20km西にある海岸へと向かいます。
 
 日本海を望む海岸からは、佐渡島がうっすらと見えます。この海岸に、燕が独立するきっかけとなったものがあるのです。
 石が多く見られる浜の中に、変わった石があります。一部がキラキラと光る石、その正体は「銅」の原石です。
 燕を救ったものとは、この鉱石の発見でした。

斑岩銅鉱床 画像引用元:倉敷市HP

 この石を生んだのが「弥彦山」という山です。
 江戸時代中頃に発見された銅。弥彦山には銅山街が開かれ、最盛期の大正時代にはひと月で50トンもの銅が採掘されたと言われています。

弥彦山(向かって左の山) 画像引用元:ウィキペディア

 この銅から、キセル、やかん、矢立(やたて:携帯用の筆記用具)などがつくられました。

矢立 画像引用元:ウィキペディア

 銅は常温で加工することができる柔らかい金属で、叩いて製品をつくります。この銅製品の製造が、燕のモノづくりを進化させたのです。
 銅製品を製造することで、職人たちの技術は向上しました。燕では銅製品を製造したことで、高い加工技術が育まれました。

 そして明治になるとある食文化が入ってきます。

Q4.燕市の名を世界に知らしめるきっかけとなった、「食文化」とは何でしょうか?
A4.洋食文化

 洋食文化が日本に入ってきたことで、それまでになかった「洋食器」が必要となりました。当時、真鍮(しんちゅう)でつくられたスプーンを見ても、燕の職人の高い技術が洋食器づくりに使われていたことがわかります。

 銅製品の細かい装飾などで培われた優れた加工技術。これが後の洋食器の製作につながり、日本が世界に誇る洋食器の町、燕が生まれるきっかけとなったのです。

日本女子大学創立10年頃の授業風景(洋食の調理) 画像引用元:農林水産省HP

 こうして江戸時代に燕は銅製品、三条は鉄製品と、良きライバルとなってモノづくりの町が発展して行きました。

 ただ一方で、長年燕三条の人々を困らせていたある問題をクリアする必要がありました。
 燕と三条がさらなる発展を遂げるためには、信濃川の氾濫をクリアする必要があったのです。

 海岸から弥彦山をはさんで反対側の燕市へ、燕と三条がこの問題にどのように取り組んだのかを探りに行きます。

 どこまでも平たく広がる越後平野。その中に、土手のような高まりとなったところがあります。
 約1.3kmの長さがある高まりは、明治時代に信濃川の氾濫をクリアする際に、人工的につくられたものでした。
 ただ、その長さからしても、川のための堤防ではありません。場所も信濃川から約5kmと、遠く離れた場所にあり、信濃川の堤防とは考えられないものです。
 そこで、明治44年、昭和6年の地図を見てみると、ある違いが見つけられます。

Q5.明治44年の地図にはなくて、昭和6年の地図にあったのは、下の地図(現在の地図です)の青線のものです。この青線は何を表しているでしょうか?地図の灰色の線は信濃川です。

画像引用元:ウィキペディア

A5.信濃川の分水路

 昭和6年の地図に見られたのは、信濃川の洪水のときに水を逃がす役割を果たす「大河津分水(おおこうづぶんすい)」という「分水路」でした。
 明治44年の地図には見られた山を削って、分水路がつくられました。
 この分水路こそ、信濃川の氾濫をクリアするためにつくられたものだったのです。

大河津分水の流路 画像引用元:ウィキペディア

 建設が始まったのは、明治3年。海側の山を削り、信濃川の水を日本海に逃がす分水路の建築工事が50年以上にわたって行われました。

大河津分水の工事風景 画像引用元:国土交通省北陸地方整備局HP

 この分水路と土の高まりに深い関係があるのです。その関係とは何でしょうか?
 現在のこの地域の土と、分水工事前の土とは大きく異なり、工事前の土は水分を多く含んでいました。かつては田植えの時に、体が土の中に入り込んで胸のあたりまで水に浸かってしまったとも言われています。
 米は生きて行くためには絶対に必要なもので、土壌の改良が必要でした。
 そこで、米をつくる土壌のために、工事で崩した山の土を混ぜて土壌を改良しました。土の高まりとは、山を崩した土を田んぼに混ぜるために置いておいたものだったのです。
 
 この分水工事によって氾濫する川の水を海に逃がし、さらに崩した山の土を利用して、土壌を改良することができました。
 燕と三条にとって一石二鳥の工事だったのです。
 そして、この工事に携わっていたのが、燕、三条のモノづくりの職人たちでした。

 分水工事によって、大正5年に燕三条の発展に欠かせないものが生まれました。
 それが一体何なのかを探るために、再び燕三条駅へと向かいます。

 JR燕三条駅の三条口。
 大正5年に生まれたモノづくりの発展に欠かせないものが、そこから見えています。

Q6.明治時代から日本各地に整備され、燕三条のモノづくりの発展に欠かせなかったものとは何でしょうか?ヒントは「駅」です。
A6.鉄道

 燕三条駅にかつての線路の跡が見えます。
 モノづくりの発展に欠かせなかったものとは、大正5年に開業(全線開通は大正14年)した「弥彦線」でした。

弥彦線(115系500番台Y編成) 画像引用元:ウィキペディア

 ポイントとなるのが、路線の方向です。弥彦線の路線は、新幹線の路線に直交しているのです。

 

弥彦線の路線(赤線) 画像引用元:ウィキペディア

 もともと燕三条の地域を通っていた路線は山際の2つ、越後線と信越本線のみでした。
 2つの路線の真ん中の地域には、信濃川の氾濫が度重なったことで、鉄道を通せませんでした。
 分水工事が行われて、信濃川の水を逃がすことができるようになったことで、燕と三条をつなぎ、2つの路線と直交する弥彦線を通すことができたのです。

 越後線からは燕三条で働く職人を運ぶことが、また、東京とつながる信越本線では製品を早く大量に輸送することができるようになりました。

 この路線図を見ると、弥彦線の終点(赤線の左端)は越後線を超えたところにあります。この終点が、燕三条の人々にとって特別な場所であり、モノづくりの支えとなった場所なのです。
 そこで弥彦線の終点へと向かいます。

 弥彦線の終点に何があるのでしょうか?
 そこにあるのが「彌彦神社(やひこじんじゃ)」です。この神社は越後一宮(いちのみや)とされていますが、「一宮」とは、その地域で最も格の高い神社であることを表します。

彌彦神社の本殿 画像引用元:ウィキペディア

 彌彦神社の中へと向かいます。創建年代がわからないくらい古い神社です。

Q7.彌彦神社の本殿へとつながる参道は、ある場所で直角に折れ曲がっています。それはなぜでしょうか?
A7.かつて本殿が折れ曲がる場所にあったから。

 彌彦神社の参道はもともと真っすぐでした。本殿も折れ曲がるところにあったのですが、明治時代に火災で焼失してしまいました。
 そして、大正5年に現在の場所に本殿が建て直され、新しい本殿につながるように参道が折れ曲がったのです。
 大正5年といえば、弥彦線が開業した年です。これは偶然ではなく、本殿が建て直された時に通されたのが弥彦線だったのです。実はそもそも弥彦線は、彌彦神社への参拝客を運ぶ路線として、本殿を建て直したときにつくられたものでした。

 この本殿が建て直された時に、境内にとても珍しいものがつくられました。
 それもまた、燕三条のモノづくりの支えとなっています。

 本殿を抜けて歩いて行くと、なんと神社の敷地内に競輪場があります。

弥彦競輪場 画像引用元:ウィキペディア

 もともと競輪場だった場所には、本殿建て直しの記念事業として、日本初の陸上400mトラックがつくられていました。
 その後、昭和20年代に競輪ブームが起こると、昭和25年に400mトラックが競輪場へと生まれ変わったのです。

Q8.弥彦競輪場に集まった観客の多くが、ある人々でした。どのような人々だったでしょうか?
A8.燕三条の職人たち

 競輪場ができたことで、燕三条の職人たちが集まってきました。週末には多くの職人たちで競輪場がにぎわっていたと言われています。
 競輪場は日々忙しく働く燕と三条の職人たちの息抜きの場となりました。
職人たちがリフレッシュして、労働意欲を再生産させるところとして、競輪場もまた燕三条のモノづくりを支えていました。
 
 燕と三条という2つの町が、良きライバルでありながらも後に手を結び、モノづくりの町として発展し続けたからこそ、江戸時代から400年もの歴史を刻み続けているのです。

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