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今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は10月14日に放送された北九州編(後編)です。
今日の舞台は、前回に引き続き福岡県・北九州市です。5つの市が合併して北九州市が生まれて、今年でちょうど60年。メガタウン誕生の背景には、日本の近代化を支えた五市それぞれの歴史が深く関わっているのです。北九州五市のひとつ若松の開発にあの「資本主義の父」と呼ばれた人物も関わっていた?筑前と豊前の国境がなかったら、八幡製鐵所は誕生していなかった?日本の近代化を支えた八幡製鐵所で最初につくられたのは意外な○○工場だった?北九州市誕生のカギとなったのは、ある乗り物だった?北九州編の後編となる今回は、北九州市誕生の裏にかくされた驚きの物語を探っていきましょう!
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No.1378 『ブラタモリクイズ!北九州~合体メガタウン!北九州市誕生の秘密とは?~編』
北九州市の位置
前回にも触れましたが、昭和38年、北九州市は明治から昭和にかけて発展した5つの市が合併して誕生しました。日本を代表する貿易港だった「門司」、江戸時代からの城下町「小倉」、日本一の石炭積み出し港だった「若松」、官営製鐵所で有名な「八幡」、そして鋳物や水産業で栄えた「戸畑」。北九州五市と呼ばれた5つの大都市の世界的にもまれな「五市合併」は、どのように実現したのでしょうか。
そのカギとなるのは、それぞれの町がどのように発展してきたのか、ということです。そこで今回も前回と同じく、北九州市誕生の秘密を、それぞれの町を見ながら探っていきます。
北九州五市 画像引用元:公益社団法人全国市街地再開発協会HP
前回の小倉に続いて今回訪れたのは「若松」です。若松は明治時代から、石炭の積み出し港としてにぎわいました。
まずは、明治時代から石炭で発展した若松の繁栄ぶりを見てみましょう。
昭和8年頃の若松の町を描いた鳥瞰図(ちょうかんず:地図の技法、図法の一種で、上空から斜めに見下ろしたような形式のもの)を見ると、洞海湾(どうかいわん)に沿って貨車が並んでいる場所が描かれています。
大正時代の若松駅と若松港 画像引用元:ウィキペディア
そこは石炭を運ぶ貨車の操車場でした。今はその跡地にマンションが立ち並んでいます。
明治時代の若松駅を写した写真もあります。当時は筑豊炭田から鉄道で石炭を運んできて、駅で船に積み替えていました。
明治時代の半ばには、筑豊炭田の石炭産出量は日本の半分を占めていました。
その関係で、若松港が日本一の石炭積み出し港になったのです。
実は若松の町をつくっていったのは、国ではなく、筑豊の炭鉱主たちでした。
筑豊の炭鉱経営者たちは、鉄道の建設から港の整備にいたるまで、若松の大規模な開発を手がけたのです。
Q1.若松の開発には、日本を代表する財界人たちも多く関わっていました。その中の一人は、第一国立銀行を設立した他、約500もの企業に関わり「資本主義の父」と呼ばれていました。その人物とは誰でしょうか?
A1.渋沢栄一(しぶさわえいいち)
渋沢栄一(渋沢資料館所蔵) 画像引用元:ウィキペディア
若松の開発には、来年度上半期に執行予定されている紙幣改定によって、一万円札に肖像が採用されることが決まっている渋沢栄一や、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎(いわさきやたろう)といった、日本を代表する財界人たちも多く関わっていました。
岩崎弥太郎 画像引用元:ウィキペディア
若松は、今は全国的に有名な都市ではありませんが、当時は石炭のおかげで日本中から注目される場所だったのです。
当時の若松の様子を知ることができるものが、若松の町の中に残っていますので、その場所に向かってみます。
向かったのは、車で5分ほどのところ。
山の手の方へと上がって行きます。かなり勾配の急な道で、ほとんど崖のようです。
もともと平地が少ない若松ですが、急速に発展する中で、山の斜面で多くの宅地が開発されました。
昔のお金持ちがつくった邸宅が今も残っています。この辺りには、石炭で稼いだ人達が多く住宅を構えていました。下が石垣で上が洋風のデザインの塀など、独特のデザインの住宅が見られます。
その中の一軒に入っています。
当時のまま残された住宅を見ると、和風建築の横に、ほんの少し洋風の部屋がついています。
このような住宅のつくりを「洋館付加(ようかんふか)住宅」と呼びます。
大正時代から昭和15年頃までに全国でつくられたもので、特に、飛躍的に近代化した物流の拠点であった、横浜、神戸、函館などの港湾都市で多く見られました。
若松には、今もこの洋館付加住宅が、50軒ほど残っています。ここが日本一の石炭積み出し港として、いかに栄えていたかを今に伝えています。
しかも若松の興味深いのは、そうした建築様式が富裕層だけでなく、一般の住宅にも採用されたと言われることです。
若松の町全体が、石炭でうるおった高揚感、時代の先端を採用するようなものであふれていたことを示しています。
さらにこの辺りを歩くと、ちょっと珍しいものが見られます。
レンガの塀がありますが、そのレンガは北九州でよく見かけるもので、レンガではありますが、色は赤ではなく、黒ずんでいます。
もともとは白くてきれいだったのですが、年月がたって色が変わりました。
北九州の町中でよく見かけるこのレンガは、明治から昭和にかけてつくられたものです。
実はこのレンガこそ、若松の次に注目する町と深い関わりがあるのです。
このレンガは、「鉱滓(こうさい)レンガ」と呼ばれます。
Q2.鉱滓とは、鉄をつくるときに、鉄鉱石が溶けたあとに出てくる副産物です。鉱滓レンガがあるということは、近くに何があると考えられるでしょうか?
A2.製鉄所
犬島精錬所(岡山県)のスラグ(鉱滓) 画像引用元:ウィキペディア
鉱滓レンガは鉱滓を押し固めたもので、「焼かないレンガ」と言われています。
鉱滓レンガは製鉄所でつくられたものなのです。
製鉄所と言えば「官営八幡製鐵(てつ)所」。この辺りで見られる鉱滓レンガは、八幡製鐵所でつくられたものです。
ということで、次に向かうのは、北九州五市のひとつ「八幡」です。
かつて日本の鉄鋼業を支えた八幡製鐵所 画像引用元:ウィキペディア
明治34年、日本初の本格的な官営製鐵所が建てられたことで、八幡は急速に発展します。
鉄が近代化の要であった時代、製鐵所の建設は一大国家プロジェクトでした。全国各地が官営製鉄所の誘致に動く中、八幡につくられることが決まった背景には、北九州ならではの驚きのドラマがあったのです。
それを探るため、北九州を一望できる、高塔山(たかとうやま)へと向かいます。
高塔山の位置
高塔山からは、若戸大橋がよく見えます。また、洞海湾がいかに長く陸地へと入り込んでいるのかが、よくわかります。
高塔山公園から見た若松市街地と若戸大橋 画像引用元:ウィキペディア
洞海湾周辺の空中写真 画像引用元:ウィキペディア
官営製鐵所は、東西に長く伸びた洞海湾の南側につくられました。
高塔山からは、戸畑、門司、関門橋も小倉も見えます。こうして見ると、北九州の真ん中に筑前と豊前の国境があったことがうかがい知れます。
筑前側にあった八幡は、製鐵所ができる前にはどんな場所だったのでしょうか?
明治29年の八幡の写真を見ると、この地は田んぼだらけで、他には何もなかったことがわかります。 その3年後に撮影された写真には、製鐵所が写っています。
実は、製鉄所の建設候補地はいくつもあって、最終的に八幡ともう1か所に絞られました。
その1か所が「門司」だったのです。
八幡と門司が最終候補地に残った最大の理由は「筑豊炭田」です。
鉄をつくるには、大量の石炭が必要です。そのため、製鐵所まで石炭を運んでくるのに便利だった八幡と門司に候補地が絞られたのです。
製鐵所をつくることが議会で決まると、製鐵所の長官や技術責任者がまず任命され、彼らが建設地の決定をゆだねられました。
そんな彼らが八幡を視察した後の反応は、なんと「八幡は絶望的」でした。
なぜ絶望的だったのでしょうか?
原因は目の前の洞海湾にあります。
Q3.八幡に製鐵所を誘致するのが絶望的だった原因が洞海湾とは、どういうことでしょうか?ヒントは、鉄などを運ぶには大きな船の出入りが必要だったことです。
A3.洞海湾が浅い海だったから。
八幡の目の前に広がる洞海湾は、昔は干潟(ひがた)のようなとても浅い海で、鉄などを運ぶ大きな船が出入りすることができず、積み出し港には適さなかったのです。
実は八幡に確定する、ほんの数日前までは、門司が有利でした。
それでも八幡に決まったのはなぜだったのでしょうか?
実は、「筑豊の炭鉱王」と呼ばれた安川敬一郎(やすかわけいいちろう)や官僚の金子堅太郎(かねこけんたろう)などの4人が、筑豊や若松でつながりのある渋沢栄一や岩崎弥太郎の力も借りて、長官たちの説得にあたりました。
その結果、洞海湾を「製鐵所にふさわしい港」にすることを条件に八幡への誘致に成功しました。
わずか数日の間に起きた、大どんでん返しだったのです。
安川敬一郎 画像引用元:ウィキペディア
金子堅太郎 画像引用元:ウィキペディア
なぜ彼らは八幡に味方したのでしょうか?
実は彼らには、ある共通点があったのです。
Q4.安川敬一郎など4人の人物がたちの共通点とは何だったでしょうか?ヒントは筑前と豊前です。
A4.全員が筑前出身だった。
共通点とは、「筑前出身」だったこと。4人はみな筑前黒田藩士だったのです。
八幡は筑前、門司は豊前と、2つはもともと違う国でした。
当時はまだ、藩閥意識が強かったため、最終候補地が筑前vs豊前の構図となり、豊前に決まろうとしている状況にあって、筑前出身の安川たちの中に、筑前に持って行かないといけないという意識が働いたと考えられます。
筑前と豊前の国境(黄色線です)
もしもここに、筑前と豊前の国境がなかったとしたら、筑前藩士の人々も、「豊前で構わない、どっちみち筑前なのだから」、と思って、動くことはなかったかもしれません。
そうなると、八幡という都市は存在しなかったことになったでしょう。
北九州の真ん中を走る筑前と豊前の国境。もしもこの国境がなかったら、官営製鐵所が八幡に置かれることもなく、現在の北九州の姿は大きく変わっていたかもしれません。
今からおよそ120年間、八幡に製鐵所が誕生しました。
その姿を今も見ることができる場所があります。
次に向かったのは、高塔山から車で20分ほどの場所。
120年前につくられた官営製鐵所はどんなところだったのでしょうか?
官営八幡製鐵所の跡は、今も同じように鉄鋼メーカーの敷地になっています。
今から124年前に建てられたレンガ造りの建物が残っています。もともとは、「旧本事務所」だったところです。
旧本事務所
旧本事務所には、長官室などが設けられ、製鐵所の中枢を担っていました。
この敷地には他にも当時の建物が2つ残っていて、旧本事務所と合わせて、世界遺産に登録されています。
今回は特別にそのうちの1つを見せてもらうことができました。
製鐵所の工場の中で、一番初めにつくられた工場。今もクレーンがあり、稼働しています。
クレーンは稼働して115年経っているのですが、ちゃんと国の検査にも通って、稼働し続けています。
そして、この建物は日本に現存する最古の鉄骨建築物なのです。現在は、工場で使う機械部品の置き場として使われています。
Q5.一番最初につくられた工場は、何をする工場だったのでしょうか?ヒントは、当時とられた写真の中に、その工場の中で機関車をクレーンでつり上げている様子が映されていることです。
A5.修繕工場だった。
当時、官営製鐵所で機関車そのものは作っていませんでした。実は、機関車は修繕のためにつるされていたのです。
この場所は、昔は「修繕工場」でした。
ただ、一から製鐵所をつくる段階では、まだ修繕するものはなさそうに思えますが、なぜ最初に修繕工場がつくられたのでしょうか?
そのヒントが、柱に刻まれている「刻印」です。柱にはドイツ語で、会社の名前が刻まれています。
官営製鐵所建設当時、建材や機械類はドイツから輸入していました。国内には鋼材をつくるところがなかったのです。
ドイツから鋼材を船で運んできたのですが、長期間船で運ぶと、まっすぐの鋼材が、ゆがんだりしてしまっていました。
そこで、鋼材を矯正するための修繕が必要だったのです。
そして、修繕工場とともに真っ先につくられた、もうひとつの工場は鍛冶(かじ)工場でした。
旧鍛冶工場では、建物の組立てに必要なスパナやハンマーなどの工具を製造していました。
こうして誕生した官営製鐵所。国会議事堂や東京駅、鉄道のレールなど、ここで作られた鉄が近代日本のインフラを支えたのです。
鉄骨組立中の議事堂(1927年3月) 画像引用元:ウィキペディア
竣工当時の東京駅 画像引用元:ウィキペディア
八幡の町は、そんな製鐵所とともに猛スピードで発展を遂げて行きました。
官営製鐵所の存在というのは、この地域にとってはとんでもないインパクトを与えるものでした。日本の近代化の要が突如出現したことになります。
人口で言うと、八幡村は1000人ちょっとだったのが、20年間で10万人にまで増加しました。
そして大正6年に「八幡市」が誕生したのです。
筑前の小さな村だった八幡を、巨大な町へと発展させた官営製鐵所。この製鉄所の誕生は、かつて筑前だったエリアに大きな影響を与えました。
当時、日本屈指の石炭の積み出し港だった若松はさらに発展して、大正3年に「若松市」へ、そして八幡の隣に位置する戸畑でも工業化が進み、大正13年に「戸畑市」が誕生しました。
旧戸畑市役所(現・戸畑図書館) 画像引用元:ウィキペディア
一方の豊前では、貿易港として発展した門司が明治32年に「門司市」へ、さらに翌明治33年には、江戸時代からの城下町・小倉が「小倉市」となりました。
こうして、筑前と豊前の国境をはさんで隣り合う5つの都市がそれぞれに発展を遂げ、合併の主体となる北九州五市が出そろったのです。
ここからどうやって北九州市が誕生したのでしょうか。
それを探るために、八幡の町の中へと向かいます。
八幡の町の中を進むと、北九州市誕生のヒントとなる場所があります。
ちょっとした住宅街の中に、坂のかたちとなった谷が出てきます。坂を下りて行くとたどり着く、谷の中にヒントがあります。
谷の一番低いところに着くと、道が曲がっているところがあり、そこが昔は川だったことがわかります。現在は暗渠(あんきょ:覆いをした水路)になっています。
山の方から北へ向かって流れる川の跡が、北九州市誕生の秘密を知るためのカギとなるのです。
川の流れる先へと進むと、大通りにぶつかります。そこで、川が地下に潜って通りをわたっていたことがわかります。
この道路はもともと川が流れる谷に土を盛ってつくられた、傾斜がゆるやかな道なのです。
道路ができるまでのイメージ図 画像引用元:ウィキペディア
この道路が、北九州市誕生と大きな関係があります。
明治時代の地図を見ると、この道路がほかの道と比べて幅が広いことがわかります。
Q6.傾斜を緩くして、道を広くしたのは、あるものを通すためです。そのあるものとは何でしょうか?
A6.路面電車
北九州線66形69号(1992年10月) 画像引用元:ウィキペディア
傾斜を嫌がるものと言えば「電車」です。この場所に路面電車を通すために、傾斜を緩く、道を広くしたのです。明治44年にこの場所に路面電車が開通しました。
実はこの路面電車の存在が、北九州市の誕生に大きく関わっているのです。
昭和2年頃の地図を見ると、路面電車が北九州五市のうち、若松を除く4つの市を結んでいたことがわかります。
そして地図をよく見ると、番号がふられています。その番号は工場を表しており、工場が電車道に沿うように建っていることがわかるのです。
では、なぜ沿うように連なったのでしょうか?
その理由は、電車道から何かをもらうためです。
Q7.電車道に沿うように建った工場が路面電車からもらったものとは何でしょうか?
A7.電気
工場の目的は電気をもらうことでした。
大正時代に、工場の動力は蒸気機関から電力へと大きく変わりました。そこで多くの工場が路面電車の電気を求めて、路線に沿うように次々とつくられるようになりました。
路面電車の会社が発電所・変電所を設置し、工場は電車の送電網から電力を得るというかたちだったのです。
そこで、工場が門司から帯状に連なっていきました。
Q8.工場が「帯状」に連なる様子から、大正時代にこの一帯は、ある名称で呼ばれるようになります。その名称とは何でしょうか?
A8.北九州工業地帯
この一帯が「北九州工業地帯」と呼ばれていたように、一体化はこの頃から始まっていたと考えられます。
例えば、市によって税制も違い、水道も違うと工場を建てても困ることになるなど、市の境があることが、発展の妨げになってきました。
北九州工業地帯が一体となって発展するのに、それを支える町がバラバラの状態では、やりにくくなってしまいます。
そこで、市の境を取り払い、一体となって巨大な工業地帯を支える。これこそが五市合併のそもそもの目的だったのです。
そして、昭和38年、日本の近代化を支えた5つの市は、五市合併という道を選びました。
筑前と豊前の国境をも超え、5つの市が1つになることで、日本のさらなる発展を牽引して行く。
こうしてついに、「合体メガタウン・北九州市」が誕生したのです。
そして最後に、そんな北九州市誕生の物語を象徴する、とっておきの場所へと向かいます。
昔、製鐵所の高官の官舎があった場所。そこに、ある石碑が立っています。
国境石 画像引用元:北九州市HP
「従是西筑前国(これより西、筑前の国)」と刻まれた石碑。
つまり、この石碑は、江戸時代に築かれた国境石(こっきょうせき)で、かつてそこが筑前と豊前の国境だった証となっています。
当時の地図で官舎を見ると、国境をまたがっていることがわかります。
かつては国境に強くこだわっていましたが、北九州の発展の波に国境が飲み込まれた事例と言えます。
国境石は、そんな歴史の証人として立っているのです。
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