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今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は11月4日に放送された敦賀編です。
今回の舞台は福井県・敦賀市。来年3月には、いよいよ北陸新幹線がやってきます。長い歴史を持つ日本海側の港町・敦賀には新鮮な海の幸をはじめ、おすすめのグルメが盛りだくさんです。北陸新幹線を迎える新駅舎が高くつくられた理由とは?敦賀に通じる「古代の道」を北陸道守り神の大鳥居が示していた?北前船が生んだ敦賀名物とは?明治の末期、ヨーロッパを目指す人々のためのターミナルが敦賀にあった?敦賀にすべての道が通じているとは、一体どういうことなのでしょうか?敦賀の地理的特徴、歴史の歩みを見ながら、その理由を探って行きましょう!
福井県・敦賀市の位置
福井県の真ん中あたりに位置する敦賀市。
来年2024年の3月に北陸新幹線の敦賀駅が開業します。
北陸新幹線E7系電車 画像引用元:ウィキペディア
今まで東京から敦賀に来るには、東海道新幹線で米原まで行って北陸本線に乗り換えるか、北陸新幹線で金沢まで行って陸路を使うか、羽田空港から小松空港まで空路で、そこから陸路というルートでした。
それが来年3月に北陸新幹線の金沢・敦賀間が開業となります。福井県に初めて新幹線が乗り入れることになるのです。
北陸新幹線のルート図 画像引用元:福井県HP
間もなく新幹線が通じる敦賀ですが、今回のお題「すべての道は敦賀に通ず」の意味は、ただ単に新幹線がつながるということだけではありません。
実は敦賀には今も昔もさまざまな道が通じていて、その道の1本1本を見て行くと歴史の上で、いかに敦賀が重要な場所だったかがわかります。
まずは新幹線敦賀駅でも多くの道が通じていることがわかりますので、開業前の新しい駅舎を一足先に見てみましょう。
敦賀駅の駅舎 画像引用元:福井県公式観光サイト
駅舎の最上階、新幹線のホームに向かいます。
ホームにつながる76段もの階段は、見上げるような高さです。もちろんエレベーターもあります。
ホームからの眺めは素晴らしく、海まで見えます。
駅舎は地上約37m、12階建てのビルとほぼ同じ高さで、敦賀市内の建物の中でもかなり高く、さえぎるものが見えません。
そこまで駅舎を高くした理由には「道」が関係しています。
駅舎の高さと敦賀に通じる道に、一体どのような関係があるのでしょう?
その理由が新幹線のホームの端でわかります。
運転士さんや車掌さんしか入らないエリアへ向かいます。
ホームの詰所(つめしょ:一時的に宿泊、仮眠したり、待機する施設のこと)から景色を見ると、トンネルが意外と近くにあることがわかります。
新たに開業する新幹線は、山の中腹にあるトンネルを通って敦賀駅までやってきます。
詰所からは、他にも「道」が見えます。
高速道路の「北陸自動車道」、その手前に「国道8号」が見えます。
みんなこの辺りに集中していることがわかります。
Q1.敦賀駅の駅舎が高くなった理由とは何でしょうか?下の画像をヒントに考えてみましょう。
敦賀駅周辺の地図
※緑矢印の先が「国道8号」、青矢印の先が「北陸自動車道」です。
A1.もともと多くの鉄道や道路が重なり合っていたため。
日本海側の交通の要衝・敦賀には、大阪や京都、名古屋や金沢方面からの鉄道が通じています。
そして、北陸自動車道や国道8号は、新潟方面から敦賀を経由して、京都方面へ向かっています。
このように敦賀駅周辺は、もともと多くの鉄道や道路が重なり合っていたので、新幹線は一番高いところを通すことになったのです。
これ以上下げることができない高さにまで下げてはいますが、新幹線のホームは高い位置にあって、駅舎自体も高くなっています。
敦賀にたくさんの道が集まっていることがわかりました。
実は、敦賀には古代から重要な道が続いていました。
それがわかる場所へと向かいます。
敦賀駅から北へ約1㎞の場所で、古代・敦賀に通じていた重要な道がわかります。
そこにあるのは氣比神宮(けひじんぐう)です。
氣比神宮の大鳥居(国の重要文化財) 画像引用元:ウィキペディア
社殿の建立は702年という、大変由緒ある神社です。
「北陸道総鎮守」と書かれた看板があります。
古代の日本では、現在の北陸地方にあたるエリアを「北陸道」と呼んでいました。北陸道には、都からの重要な道が通じていて、敦賀は都から見て、北陸道の入口にあたります。
そこに位置する氣比神宮は、北陸道全体を守る神として敬われていたのです。
氣比神宮大鳥居は、江戸時代初期の1645年に建立され、国の重要文化財に指定されています。江戸時代から変わらぬ形のままです。
江戸時代からある大鳥居は、京都方面から来る人を迎えるように、京都につながる道に向いています。
実は、江戸時代より前、大鳥居は今とは別の場所に建てられていたのです。
現在の大鳥居が建てられる前に描かれたとされる境内図を見ると、大鳥居はもともと境内の北東の位置にありました。
ずいぶんと離れた場所に建てられていましたが、実は古代・敦賀には、もうひとつ重要な道が通じていて、この鳥居こそがその道を解き明かすカギになります。
かつて大鳥居が立っていたとされる場所に向かいます。
絵図をよく見ると もともとの大鳥居は北の方角を向いています。
つまり北側から来る人を迎えていたのです。
氣比神宮の位置
※赤丸が氣比神宮の位置、赤矢印が北の方角です。
Q2.大鳥居が北の方角を向いていたことから、敦賀にどんな人が来ていたと考えられるでしょうか?
A2.大陸から海を渡って来る人
敦賀の真北から来る人とは、日本海をはさんで海外から来る人でした。
それでは、海から来た人はどこから敦賀に来たのでしょうか?
「大陸」から海を渡ってやってくる人を意識して大鳥居が建てられたと考えられています。
中国の東北部に「渤海(ぼっかい)」という国があり、その渤海の使節が多く日本に訪れていました。
渤海と新羅(しらぎ)の領域 画像引用元:ウィキペディア
※紫が渤海、青が新羅です。
奈良時代の727年から約200年にわたり、渤海は日本に外交使節を派遣していたと言われています。
朝鮮半島から日本に来るには、大宰府や対馬が近かったため、来やすかったのですが、渤海から直接日本に来ようとすると、日本の色々な場所に着いてしまいます。
色々な場所に着いた渤海使に対して、都からは「とにかく敦賀に行きなさい」との使いを送り、敦賀に着いたところで正式に上陸となったと言われているのです。
つまり、もうひとつの道とは「海の道」のこと。敦賀には古代から、大陸との重要な航路が通じていたのです。
それでは、なぜ敦賀が古代・日本の玄関口になったのでしょうか?
実は敦賀の港にはこういうことに適した特徴があるのです。
それを探りに、氣比神宮から西へ約1.5㎞、現在の敦賀港の近くへと向かいます。
天筒山(てづつやま)から望む敦賀港と三内山(みうちざん) 画像引用元:ウィキペディア
敦賀の港から海の方を見ると、普通は陸地から海を見ると見える景色が、ここでは見えません。
Q3.陸地から海を見ると見えるけれど、敦賀の港からは見えないものとは何でしょうか?下の画像をヒントに考えてみましょう。
敦賀港(赤丸です)の周辺地図
A3.水平線
敦賀港から見えないものとは「水平線」です!
敦賀の港の西側には敦賀半島が、東には越前海岸(えちぜんかいがん)が続きます。
深く入り込んだ湾の奥にあるのが敦賀の港です。
敦賀湾 画像引用元:環境省HP
そこには、どんな利点があるでしょうか?
まず波がないこと。敦賀の港は、琵琶湖よりも波が静かと言われるくらいに静かなのです。
さらにもうひとつ、古代・敦賀の港には地形的な大きな利点がありました。
それを探りに、海岸近くの道路へと向かいます。
東の方角に向かいながら、道を進むと、海がある北側が高く、南側が低くなっていることがわかります。
これは「浜堤(ひんてい)」があったためです。
浜堤とは、砂などが波の力で打ち上げられて、海岸線に平行にできる堤状の高まりのことです。
エストニアのサーレマー島に見られる浜堤 画像引用元:ウィキペディア
この辺りの土地の高さを色分けした地図を見てみると、海岸に平行して浜堤があることがわかります。その南側はまわりに比べて低くなっています。
その低くなっている場所が、古代はどのような地形になっていたのでしょうか?
そこは、陸側に海が入り込んだ場所でした。
海が入り込んだこの地形こそが、古代日本の玄関口にとって大きな利点だったのです。
陸側に海が入り込んだ地形のイメージ図
Q4.陸側に海が入り込んだ地形であることがどのような利点となったのでしょうか?
A4.大陸からやってきた船の管理・監視ができたこと。
狭い川から入ってきて広いところに船を横づけさせると、船の管理・監視をすることができました。
古代の敦賀の港では、この地形を利用して検疫や入国審査を行っていたのです。
まず、大陸からやってきた船は沖合に停泊させて、小さな船に人を乗り換えさせて、この場所に集めます。そして、国内の船とは隔離した上で、検疫や入国審査を行っていたと考えられています。
現在の国際線の空港にも通じるような管理・監視システムと言えます。
古代の敦賀には、入国管理ができる地形があったからこそ、大陸からの道が通じていたのです。
これまでは、古代に通じた道を見てきましたが、次は江戸時代です。
敦賀にある道がつながったことで、敦賀名物が生まれました。
それがわかる場所が、200mほど離れた場所にあります。
ある建物の中で、何かを作っているのですが、独特の香りがします。
そこで作っているのは、「おぼろ昆布」です!
昆布かきによるおぼろ昆布加工(福井県敦賀市) 画像引用元:ウィキペディア
敦賀名物とはおぼろ昆布のこと。
職人の手によって一枚一枚ていねいに、薄い昆布が削り出されます。
なんと全国で生産される約8割が、敦賀産です。
江戸時代から今に至るまで、手作業でつくられているのです。薄さは透けて見えるくらいで、なんと0.01mmというのが売りになっています!
おぼろ昆布は江戸時代、敦賀につながるある道があったからこそ生まれた名物なのです。
敦賀湾や近海ではもちろん昆布はとれません。昆布は北海道産です。
Q5.北海道産の昆布を敦賀で加工できるようになった要因に「○○船」の存在があります。○○に入る漢字2字は何でしょうか?
A5.北前(船)
なぜ敦賀でおぼろ昆布が名物になったかというと、それは「北前船(きたまえぶね)」があったからです。
明治末から大正期に撮影した北前船 画像引用元:ウィキペディア
北前船とは、日本海側を航行して、北海道・大阪間の港ごとで商品の売買をしていた商船のことです。
江戸時代から明治に至るまで、日本の物流の大動脈でした。
つまり、おぼろ昆布を生んだ道とは、「北前船の航路」のことなのです。
北前船の寄港地の中でも特に敦賀には大量の昆布が運ばれました。
でも、なぜ敦賀なのでしょうか?
大消費地に近いこともありますが、実は一番の利点が他にあったのです。
Q6.昆布を北海道から京都や大坂に直接運ぶのではなく、敦賀で1回降ろした理由とは何でしょうか?下の地図をヒントに考えてみましょう。
赤の点線が北前船の航路、赤丸が敦賀の位置、青四角が大坂の位置です。
A6.1回敦賀で降ろすと、もう1度北海道に帰ることができたため。
北海道のものを京都や大坂に持ってくると、一番利潤が上がります。
北海道から船で大坂まで運べば、1回で大量の昆布を運ぶことができますが、これでは年に1往復しかできません。
そこで大坂まで行くのではなく、1回敦賀で降ろすと、もう一度北海道まで帰ることができて、年に2回往復ができます。
つまり消費地の大坂、京都に近い敦賀は、北前船が昆布で利益を上げるのに絶好の場所だったのです。
こうして敦賀に大量の昆布が集まり、それを加工したことで、名物のおぼろ昆布が生まれました。
敦賀に名物を誕生させた北前船の道ですが、幕末になると、この海の道にある問題が発生します。
日本近海に外国船が出没したことで、安全な航路の確保が難しくなりました。
北前船もさることながら、年貢米などを運ぶ船も大坂まで行っていました。幕末に「下関戦争」が起きましたが、こうしたことが起きると、下関を通るルートも使えなくなってしまいます。
大阪や京都にお米が届かなくなってしまうという危機が訪れてしまうのです。
海の道が危うくなり、より重要となったのが敦賀から京都までの道。
ここに大量輸送を目的とした、新たな道が整備されました。
それがわかる、敦賀の港から南へ約7㎞のところにある、「疋田(ひきだ)」という集落へと向かいます。
明治時代の道標が残っていますが、そこに「右 西京 東 東京」と書かれています。
つまり、そこが分かれ道であったことを表しています。
疋田の集落は、琵琶湖の北側にあって、左の道、右の道というのは、琵琶湖の両側に分かれて行く道の
ことなのです。
黄色丸が疋田の位置、赤丸が京都の位置です。
新たに整備された輸送路というのは、この道ではなく、そこを流れる川のことです。
小さな川のように見えますが、実は人工の水路で、「疋田舟川(ひきだふながわ)」と呼ばれています。
疋田舟川 画像引用元:文化庁HP
京都へ向けた新たな輸送路がこの疋田舟川です。
敦賀の港から疋田まで、約6.5㎞、船で荷物を運ぶ水路として、幕末に京都町奉行によってつくられました。
疋田の先には琵琶湖があり、再び舟で運ぶことができます。
疋田舟川と琵琶湖、2つの水運を利用して、敦賀から京都まで大量輸送をしようというものだったのでした。
現在は舟が通ることがイメージできないほど川幅が狭くなっていますが、当時はもう少し広かったのです。道の方を広げるために、半分くらいに縮めてしまいましたが、川の幅は3mくらいあったと言われています。
当時は川の両岸から60人ほどで船を引っ張り上げていました。
これで外国船の影響を受けない輸送路が整備されました。
ただ、人力で引っ張り上げるものだったので、その輸送量には限界があり、経済的に立ち行かなかったことで、この道が恒常的に使われることはありませんでした。
疋田舟川はわずか10年足らずで廃止になってしまったのです。
この疋田舟川が使われていた時代から10年もしないうちに明治時代になります。
明治政府もまた輸送路について、同じ問題を抱えていました。
外国船が関門海峡に現れると、大阪や京都に輸送できなくなってしまうため、このルートを明治政府も重要視していたのです。
そして、明治政府が新たな方法でここに輸送路を整備します。
それが何か?疋田舟川をたどるとわかるのです。
レンガのアーチが見られる場所があり、その上に非常に起伏の少ない一直線の道路が続いています。
Q7.この場所につくられた新たな輸送路とは何でしょうか?ヒントは「起伏の少ない一直線の道」です。
A7.鉄道
疋田舟川の機能を代替するもの、それは「鉄道」でした!
この鉄道こそ、明治政府がつくった新たな輸送路だったのです。
敦賀の港近くの金ヶ崎(かねがさき)から琵琶湖に面した長浜まで、鉄道を整備しました。蒸気機関車と琵琶湖水運を使い、敦賀から京都までの大量輸送を可能にしたのです。
赤丸が金ヶ崎の位置、青四角が長浜の位置、オレンジ線が両区間を結ぶ鉄道です。
日本最初の鉄道と言えば新橋、合わせて神戸・大阪間ですが、実はこの2つにこの金ヶ崎・長浜間を含めた3路線の建設が決まったのはほぼ同時で、明治2年のことでした。
敦賀から琵琶湖の水運につなげるルートは、明治新政府が最初につくると決めた鉄道の路線の中に入っていたのです。
それだけ重要視されていました。
江戸時代、物流の大動脈になれなかった水路と、明治時代になってなりえた線路。
ここはまさに日本の輸送の文明開化を示す場所と言えるのです。
続いては、この線路の終点。そこは終点というだけでなく、実は敦賀につながる新たな道が見えてくる場所でもあります。
そこで、明治時代につくられた鉄道の終点、敦賀の港近くの金ヶ崎へと向かいます。
金ヶ崎は港のすぐ横で、金ヶ崎停留所がつくられたことがはじまりです。
今も線路が残っている場所は、「金ヶ崎停留所跡」です。
その後、鉄道で東京ともつながった金ヶ崎、明治の終わり頃になると、この鉄道は貨物だけでなく、人も運ぶようになりました。
この停車場に来た人たちはここを最終目的地とはせずに、さらに次のところへ行こうとしていました。
ここに来た人たちは、一体どこに向かったのでしょうか?
昔の写真を見ると、停車場のすぐ隣に船が着いている様子が写っています。
金ヶ崎桟橋と「満州丸」 画像引用元:福井県立図書館HP
その船はどこに向っていたのでしょうか?
当時の切符を見ると、東京―ベルリン、東京―敦賀(米原経由)と書かれています。
なんと、敦賀に通じていたのは、「ヨーロッパへの道」でした。
Q8.敦賀からヨーロッパに向かう際の最初の経由地は、ロシア沿海地方の中心都市で、1919年頃には6000人もの日本人が居住していたと言われます。この経由地となった都市の名前は何でしょうか?
A8.ウラジオストク
ウラジオストクの位置
東京から敦賀まで乗換えなしで行ける列車の運行が始まり、切符一枚で敦賀を経由して、ヨーロッパまで行くことができたのです。
この列車を「欧亜国際連絡列車」と言います。敦賀からウラジオストクは船で渡り、列車に乗り換えてモスクワ、ワルシャワを経由して、ウイーン、パリまでも行けました。
東京からパリまで船では40日かかるところ、連絡列車によって17日で行けるようになったのです。
「すべての道はローマに通ず」と言われるローマからの道も敦賀につながっていました!
鉄道と港の町、敦賀。
海を越え、世界中から道が通じていたこの町は、いつの時代も常に新たな道がつながる場所だったのです。
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