No.1398 『ブラタモリクイズ!鯖街道・京都へ~鯖街道は何を運んだ?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は11月11日に放送された鯖街道編です。

 今回の舞台は鯖街道。スタートは福井県の港町・小浜、その後、風情ある宿場町や、滋賀県の山あいを経由して、ゴールの京都へとつながる全長72kmにおよぶ道のりです。町の中の広い場所が鯖街道の起点となった理由とは?鯖街道最大の宿場町は物流の重要拠点だった?直角に折れ曲がる道をつくった大地のメカニズムとは?鯖街道が運んだ日本の歴史に大きく関わる驚きのものとは?鯖街道がなければ鯖寿司は生まれていなかった?サバを運ぶだけではなく、さらなる重要な役割を持った道、鯖街道。この道が何を運んだのか、街道沿いの地域の地理的特徴、そこで見られる歴史の歩みを確かめながら探っていきましょう!

福井県・小浜市の位置 

 福井県の南西部にある小浜市。
 「小浜西組(重要伝統的建造物群保存地区)」という昔ながらの町並みが残る場所です。町並みを抜けると、美しい港が目の前に広がります。
 
 今回のお題にある「鯖街道」とは、この港町・小浜から京都につながる街道のこと。
 この道を通れば、小浜でとれた新鮮な鯖をわずか1日で京都に届けることができたのです。
 
 目の前に広がるのは、「小浜湾」。カニのはさみのような形状の地形を抜けると若狭湾になります。

小浜湾と若狭湾

 若狭湾では、江戸時代中頃から昭和にかけて大量のサバがとれました。その量たるや、海の底から湧いて出たほどと言われています。

 大量のサバはこの小浜から、一大消費地である京都へ運ばれていきます。
 実は、小浜と京都を結ぶ鯖街道には、いくつかのルートがあります。
 その中で今回注目するのは、サバを運ぶメインルートだった道です(下の画像の青矢印の先です)。

主な鯖街道(赤ライン) 画像引用元:ウィキペディア

 この街道が運んだものが何か、というのが今回のお題です。
 今回はなんと全長72kmになりますが、この道を京都まで進んで行きます。

 まずは、鯖街道の始まり、小浜がどんな町なのか、中心部を歩いて見てみましょう。

小浜西組 画像引用元:ウィキペディア

 この辺りには、数十年前までたくさんの魚屋が立ち並んでいました。今でもその名残りがあります。
 町の魚屋には、グジ(アマダイ)やアナゴの干物などが並んでいます。
 小浜の近海ではサバはもちろんのこと、色々な魚がとれます。サバと一緒に運ばれていたものは、グジ、カレイ、アジなど20種近くに及びます。
 古代から小浜の魚や貝が、京都・奈良へ運ばれていました。
 小浜の豊富な海の幸は、古代から鯖街道で運ばれ、都の食を支えていたのです。
 
 さて、鯖街道の起点となる場所がこの辺りにあるのですが、それはどこでしょうか?
 町を歩いて、鯖街道の起点を探しましょう。

 歩いてると、道幅の広いところがあります。なぜその場所の道幅は広いのでしょうか?
 道の途中に祠(ほこら:神をまつる小さな社)があり、そこには「市蛭子(いちえびす)神社」と記されています。

Q1.祠があった場所にはかつて何があったと考えられるでしょうか?ヒントは祠に記された「市蛭子神社」という言葉です。
A1.市場

 祠の「市」という文字が、その辺りにかつて市場があったことを示しています。道幅が広いことから、たくさんの人や荷物が往来するかなり大規模な市場だったとわかります。
 江戸時代の地図を見ると、その場所には「上市場」「下市場」の表記があります。
 かつて市場があったその場所こそ、鯖街道の起点だったと考えられています。
 実はその場所は、小浜の中でも市場をつくるのにぴったりの場所だったのです。
 この市場のすぐそばには、かつて大きな川が流れていました。

Q2.近くに大きな川が流れていたことで、なぜその場所が市場をつくるのに適していたのでしょうか?
A2.川を利用してつくられた港があったため。

 海の沿岸の場合は、砂浜があって船が近寄れませんが、この近くを流れる川に入ると、川底が深いため、大型の船も内側へ入ることができたのです。
 川を利用してつくられた港には、大型の船が次々とやってきました。
 そして、水揚げしたものを集約する拠点として、川のすぐ近くの場所に市場ができたのです。

 そんな小浜の港には、川港を利用して、非常に珍しいものが陸揚げされていました。
 それはなんと「ゾウ」!小浜には、1408年に東南アジアからゾウを乗せた大型船が来航したのです。
 小浜は記録上、日本で初めてゾウが上陸した地と言われています。
 このゾウは当時の足利将軍家への贈り物として、鯖街道を歩いて京都に届けられたと言われています。
 このことからも、京都の日本海側の玄関口として、小浜が重要な役割を果たしていたことがわかります。

 鯖街道の起点がわかったところで、鯖街道72kmの道のりを、京都を目指して進んでいきましょう!
 向かったのは小浜から南東へ約15km、鯖街道沿いで最大の宿場町「熊川宿(くまがわじゅく)」です。

 そこは1㎞にわたる大きな宿場町で、古い町並みが残っています。
 道の横には人工的に水を引いてきた流れがあります。

Q3.下の画像のように、道の横に用水路がありますが、その街道ならではの用途とは何だったでしょうか?ヒントは街道を荷物を運んで進むために何が必要だったかということです。

熊川宿と前川 画像引用元:ウィキペディア

A3.荷物を運ぶ牛馬に水を飲ませるため。

 この用水路は生活用水や農業用水としての用途の他に、荷物を運ぶ牛馬に水を飲ませるためのものでもありました。
 宿場町の多くで、道の片方に川が流れているのは、この用途のためです。
 今では、その流れの中で小さな水車のようなものがまわっています。
 これは「芋洗い器」といって、芋の皮をむくためのものなのです。器の中には入った芋は、川の流れを利用して、およそ30分で皮がむけるようになっています。
 
 熊川宿には、鯖街道がどんなものを運んだか、さらにわかる場所があります。
 江戸時代後期に建てられた、熊川宿に現存する最古の建物「倉見屋」があります。

熊川宿の倉見屋 画像引用元:ウィキペディア

Q4.この建物の玄関には「輪っか」が付けられていました。このことからこの建物では、どのような商売が営まれていたと考えられるでしょうか?
A4.運送業

 輪っかは馬をとめておくための金具で、その建物は、かつて「人馬継立(じんばつぎたて)」という運送業を営んでいたお店なのです。
 ここで小浜からの荷物を引き継ぎ、人や馬を交代してリレー方式で京都へと運ぶことで、1日で京都まで荷物を運ぶことができたのです。
 
 では一体、どんな荷物がここを経由していたのでしょうか?
 それがわかる「駄持定帳(だもちさだめちょう)」という貴重な資料があるので、見てみましょう。
 「駄持定帳」は江戸時代の帳簿で、荷物の運送に関わる費用が書かれてあります。
 例えば「能登いわし」という表記があります。能登ですので、石川県から船便で小浜に入って、この店を通っていたのです。
 また「紅花」という表記もあります。紅花は、染料のもとになる花で、高級な着物や口紅などに使われ、江戸時代は特に高い人気を誇っていたと言われます。紅花と言えば山形県、山形からもここを経由していたのです。

ベニバナ 画像引用元:ウィキペディア

 さらには「津軽たばこ」の表記。
 このように、北側のものをほとんどここに荷揚げして、陸路で京都に運ばれていたことがわかります。
 つまり、鯖街道は日本海側の各地域と京都を結ぶ物流の大動脈であり、熊川はその中継地として主に栄えた町だったのです。
 この道は、小浜で水揚げされた魚介類だけではなく、日本海側の各地から集まったあらゆるものが運れていたのです。

 ただ、小浜と京都を結ぶ道は他にもあったのに、なぜ熊川宿を通る道がメインルートになったのでしょうか?
 小浜から京都にできるだけ早く行こうとすると、本当は一直線で進みたいのですが、途中に山があります。

赤丸が小浜市、青丸が京都市、黄色線が一直線ルート、茶色線が実際のルートです。

 かつては、人が荷物を担いで山越えをしていたこともあったのですが、大量の物資を運ぶとなると、山道を使うのは難しくなってしまいます。
 小浜から最短距離で京都に向かうルートは、険しい山をいくつも越えなければならず、大量のものを運ぶのには向いていません。
 一方、熊川宿を通るメインルートは谷筋を通っているので、起伏が少なく、まっすぐなため、荷物を運びやすかったのです。
 特に荷車などを使う場合には平たんな道を選びますので、そのための道が整えられたと考えられています。
 したがって、小浜から熊川宿を通り、この先で南へ曲がって京都を目指していたのです。

 それでは、こんなにちょうどいい道ができたのはなぜなのでしょうか?
 熊川宿にその謎を解くカギがあります。
 続いては、ものを運ぶのにちょうどいい鯖街道がどのようにできたのか、その謎を解き明かします。

 大量のものをはやく確実に運ぶことができる、ちょうどいい道がなぜできたのでしょうか?
 その謎を解くカギは、ある神社の中で見られる地形にあります。
 注目したいのは、川です。川が曲がって流れていますが、その曲がりがポイントなのです。

Q5.この辺りの川が曲がって流れる理由について説明した下の文の○○に入る漢字2字は何でしょうか?
「川が曲がって流れるのは、○○があってそれが『ずれる』ため。」
A5.断層

 川が曲がるということは、断層があってそれがずれることを表します。
 一体、川が曲がることと断層にどのような関係があるのでしょう?
 下から見て曲がっているだけでなく、川の上流を見てみると、上流も曲がっています。
 上空から見ると、川がS字に2回曲がっていることがわかります。

 断層との関係を地形図で考えてみましょう。
 本当はまっすぐに流れていたものが、断層で起きた横ずれが原因で曲がってしまったのです。
 この辺りには「熊川断層」と呼ばれる断層があります。熊川断層は地盤が水平に動く「横ずれ断層」です。川筋は、この断層の動きと同じ方向に曲がっています。
 つまりS字の川は断層の横ずれがあったことを物語っているのです。
 この横ずれ断層によって生まれたのが、まっすぐな谷です。横ずれが起こると、ずれてもろくなった部分が川に侵食されて、谷になります。
 この谷の底を利用すれば、起伏が少なく真っすぐな道を通すことが可能になります。
 こうして、大量のものをはやく運ぶのにもってこいのルートが生まれたのです。

断層の横ずれから道ができるイメージ図

 熊川を通る東西のまっすぐな道が、断層のおかげでできたことがわかりました。
 ただ、大きな問題がこの先にあります。
 街道は熊川宿を少し過ぎたところで、直角に曲がるのです。
 そこで、その曲がり角まで行ってみます。

 ここからは福井県を出て滋賀県へ。
 小浜から南東へ約24㎞、鯖街道が曲がるところまでやってきました。
 ここで、直角に曲がる道がなぜできたのか、その謎を解き明かしましょう。

 やってきたのは保坂(ほうざか)というところ。
 まさに鯖街道として使われていた道を進みます。
 その先に街道の痕跡がありますので、探しながら歩いてみましょう。

 江戸時代中期の道標があります。「右 京 道」と記されていますので、右側を行くと京都方面になります。
 小浜から一直線にきた道が、直角に曲がってさらに一直線に京都へのびています。
 南北方向にまっすぐのびるルートは何によってできたものでしょうか?
 そこにも断層があるのです。
 地形図を見ると、京都へ向かって南北にのびる「花折(はなおれ)断層」とう断層があります。

赤が熊川断層、黄色が花折断層です。

 京都への真っすぐな道は、花折断層が生んだものです。
 東西にのびる熊川断層と、南北にのびる花折断層、この2つの断層によって開かれた道ということなのです。
 港町・小浜と京都を結ぶ絶妙な2つの断層。一体どのようにしてできたのでしょうか?
 その成り立ちを、模型を使って解き明かしましょう。
 日本列島には、プレートの沈み込みの影響で、全体として東と西から圧縮する力が働いています。
 模型で東西の向きから圧縮する力をかけると、地盤がずれて直角に2つ断層ができます。

2つの断層ができるイメージ図
ピンクが圧縮する力、赤が熊川断層、黄色が花折断層です。

 実は熊川断層と花折断層は同じ力でできたのです。
 このような断層は、共に役割を担うと書いて、共役断層(きょうやくだんそう)と呼ばれます。
 共役断層とは、断層面が交わり、ずれの向きが逆方向になる2つの断層のことです。
 
 こうして、断層のずれによってもろくなった部分は、崩れて谷となります。そして、谷沿いにできたまっすぐで起伏の少ない道こそが、鯖街道なのです。
 2つの断層があったからこその奇跡と言えます。

 同じ力で生まれた2つの断層が小浜と京都をつないだ奇跡。
 そのおかげで大量のものをはやく都へ運べる夢の輸送ルート、鯖街道が生まれたのです。

 実はこの鯖街道、日本の歴史に大きく関わる驚きのものも運んでいます。
 それが一体何なのか、それがわかる場所に向かいます。

 続いてやってきたのは、小浜から約33㎞、滋賀県の朽木(くつき)という地域です。
 ここで鯖街道の道のりの半分くらいまで来ました。

朽木の位置

 日本の歴史に関わる鯖街道が運んだ意外なものとは何か、それがわかる場所に進みます。
 興聖寺(こうしょうじ)というお寺があります。ここは街道を通じて、ある重要なものがやってきた場所です。

興聖寺 画像引用元:ウィキペディア

 ヒントはお寺の境内にあります。境内を奥へと進むと、そこに土塁があります。
 境内を測量図で見てみると、コの字型に大規模な土塁が築かれていることがわかります。
 さらに、土塁の奥には堀も。
 こんな厳重なつくりにしてまで、何を守っていたのでしょうか?
 実は、室町時代にある重要な人物がここへやって来ていました。
 それを守るための防御なのです。
 どんな人物がやって来ていたのか、それがわかる場所が同じ境内にあります。
 そこには庭園の跡があり、「足利将軍義晴公之庭園」と記されています。そこは12代将軍足利義晴のためにつくられた庭園。室町幕府の将軍が住んでいた場所だったのです。

足利義晴像 画像引用元:ウィキペディア

Q6.足利義晴は室町幕府の第12代将軍ですが、第3代将軍で、南北朝の合一を行い、金閣を建立した人物とは誰でしょうか?
A6.足利義満

足利義満像(鹿苑寺蔵) 画像引用元:ウィキペディア

 この庭園の石組みは、豪壮な感じの石組みで、武家庭園と呼ばれています。いかにも将軍のための庭園です。
 室町時代後期、幕府の権威が揺らぎ、京の都では度々反乱が起きるなど、不安定な状況が続いていました。そこで、反対勢力の脅威から逃れるため、12代将軍義晴、13代将軍義輝が合わせて8年にわたり身を寄せたのが、ここ朽木だったのです。
 もしも京都側から敵が攻めてきても、日本海側へ逃げるという逃げ道を確保することができました。
 京都へも帰りやすく、危うくなれば日本海側へ逃げる、鯖街道が避難ルートとしてももってこいだったことで、なんと将軍まで運ばれたのです。
 さらに、屋敷は将軍に随行してきた人たちのもので、公家、諸大名、さらに幕府の奉行衆たちが大勢やって来ていました。つまり、当時の幕府の中枢が朽木に来ていたのです。
 そこで、この時代を「室町時代の中の朽木幕府時代」と言う学者もいるくらいです。

 将軍が避難してきただけでなく、政治の中心まで移ってきた朽木。
 鯖街道には、ものを運ぶ以外の重要な役割があったのです。

 この地域を治めていたのは朽木氏で、当時の幕府の親衛隊、奉公衆(ほうこうしゅう:室町幕府将軍直属の軍隊として組織された武士)のひとりでした。
 ですから、安心して将軍が頼って来ることのできる場所だったのです。
 足利将軍のピンチを救った朽木氏でしたが、その第29代当主の朽木清綱(きよつな)さんという方がいらっしゃいます。
 朽木さんによると、朽木家が朽木の地に住んで750年にもなるそうです。
 実は朽木さんのご先祖は、ある時代に歴史上非常に有名な重要人物の命を救いました。
 その人物とは、戦国の三英傑のうちのひとり、織田信長でした。

Q7.織田信長の妹、お市の方の夫で、信長と同盟関係にありながら、1570年の「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」で信長と敵対することになった武将とは誰でしょうか?
A7.浅井長政(あざいながまさ)

浅井長政像 (高野山持明院像) 画像引用元:ウィキペディア

 1570年、織田信長が敵対する朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻めた際に、同盟を結んでいた浅井長政に裏切られ、挟み撃ちにあいます。この「金ヶ崎の戦い」で窮地に追い込まれた信長が選んだ逃げ道が、陸路でいち早く京都を目指せる鯖街道でした。
 その際、朽木氏は逃げてきた信長を受け入れて、護衛まで付けて京都に送り込んだのです。

 足利将軍に織田信長と、鯖街道が日本の歴史における超重要人物を運んでいたということがわかったところで、次はいよいよ鯖街道のゴール、京都に向かいます。

 スタートの小浜から72㎞、ついに鯖街道の終着点がある京都へ。
 やってきたのは賀茂川のほとり。ゴールはもうすぐです。

 やってきたのは創業から240年以上続くお店。
 江戸時代より、鯖街道で運ばれたサバを使ってつくられていたのが「鯖寿司」です。

鯖寿司 画像引用元:ウィキペディア

 鯖寿司は京都が発祥で、もともとは家庭料理でした。
 鯖街道がなければ、鯖寿司は生まれませんでした。
 その昔、小浜の方からサバは背負って京の町に持ってこられましたが、その際に浜でひと塩をされてきていました。
 それで京の町に着いた頃には、いい塩加減になっていたのです。

Q8.小浜でひと塩(ほんの少しの塩)されたサバが京都で食されていたということから、鯖街道は京都にとってどのような利点のあるものだったと考えられるでしょうか?
A8.短時間で魚を運ぶことができた。

 「若狭一汐(わかさひとしお)」という言葉が京都にはあります。「若狭一汐」とは、ほんの少しの塩をふって小浜から京都まで運ばれた魚のこと。
 冷蔵庫のない時代に、魚を長持ちさせるには、通常であれば大量の塩が必要でした。
 ところが、たった1日で運べる鯖街道のおかげで、若狭湾の魚は、わずかな塩をふるだけで京都まで届けることができたのです。
 鯖街道が京都では大きな意味を持っていて、スピードに長けた奇跡の輸送ルートであったというふうにも考えることができます。
 だからこそ、サバはもちろんさまざまなものが運ばれた一つの大きな流れになったと考えられているのです。

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