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今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は12月2日に放送された東京・世田谷編です。
今回の舞台は東京・世田谷。成城学園や二子玉川といった有名な住宅地や、下北沢など若者に人気の街があり、東京23区唯一の渓谷(等々力渓谷)もあるほど、緑が多くて住みやすい街です。桜新町の先進的な都市開発はあの国の都市計画を参考にしたものだった?世田谷城を築くうえでの世田谷の地形的な利点とは?世田谷は縄文時代から住みたくなる場所だった?豪徳寺と彦根のご当地キャラクターには深い関係があった?世田谷線がL字に曲がって走行する理由とは?なぜ人は世田谷に住みたくなるのでしょうか?世田谷で暮らす人々の生活の歴史と地理的特徴を探りながら、その謎を解き明かしていきましょう!
東京・桜新町の位置
東急田園都市線・桜新町駅近くには、いくつものサザエさん一家の像が並んでいます。
桜新町はサザエさんの作者、長谷川町子さんが暮らしていたことから、サザエさんゆかりの街として知られています。
長谷川町子 画像引用元:ウィキペディア
桜新町駅前に設置されているサザエさん一家の銅像 画像引用元:ウィキペディア
実は漫画のサザエさん一家も世田谷に住んでいました。
その証拠に、漫画の一編で世田谷の住所をキャラクターの一人、ワカメが自宅の住所を告げる場面で「せたがや・しんまち」という町名が出てきます。
世田谷は住宅地として有名です。
東京23区の人口ランキング(令和2年10月総務省統計局「国勢調査」より)を見ると、約94万人の世田谷区が2位の練馬区に約20万人もの差をつけて、ダントツでトップです。
東京23区の人口グラフ 画像引用元:公益財団法人 特別区協議会HP
世田谷区の人口を県で言うと、都道府県人口ランキング(令和2年10月総務省統計局「国勢調査」より)で第39位の香川県(約95万人)と第40位の和歌山県(約92万人)の間くらいになります。
Q1.令和2年(2020年)10月総務省統計局「国勢調査」による都道府県人口ランキングの第1位から第5位にはどの都道府県が入るでしょうか?
A1.第1位:東京都、第2位:神奈川県、第3位:大阪府、第4位:愛知県、第5位:埼玉県
これだけ多くの人が住宅地・世田谷に暮らしているということがわかります。
なぜ世田谷は人が住みたくなる街になったのかについて考えながら、世田谷の魅力を解き明かしていきましょう。
「サザエさん通り」と名付けられた商店街のある桜新町は、東京の郊外の中では、住宅地開発の先駆けとなった場所です。
郊外を宅地開発し、新町住宅地として分譲が開始されたのが今から約110年前の大正2年のこと。
実は桜新町こそ、住宅地・世田谷の始まりとなった場所なのです。
開発のきっかけになったものがあります。
そのきっかけもまた、サザエさんの漫画の中に描かれています。
渋谷と二子玉川をつなぐ「玉川電気鉄道」という電車が通ったことが開発のきっかけとなりました。
東急玉川線(1969年5月) 画像引用元:ウィキペディア
「玉電」の愛称で親しまれた、玉川電気鉄道・玉川線(昭和13年に現在の東京急行電鉄である東京横浜電鉄に合併)は明治40年に渋谷から玉川(現在の二子玉川)の間で開通し、昭和44年に廃止されました。
商店街となっている道は約300mと長いのですが、駅と住宅地をつなぐためのアプローチの道となっています。
住宅地の入口のところに、不思議な角度が見えます。駅からまっすぐにのびる道が、住宅地の入口で二手に分かれ、Y字路になっています。その2つに分かれる道の両方が入口となっているのです。
そのY字路の先が、最初に住宅地が開発されたエリアでした。
桜新町Y字路付近の航空写真
誰がどういうふうに考えてY字路になったのか、わからないことがまだ多いですが、かなり先進的な街づくりをしようとした痕跡と考えられています。
実は桜新町の開発には、参考にした都市計画がありました。
それが「ガーデンシティー」、日本語では「田園都市」と訳されるイギリスの都市計画です。「田園都市構想」とは、1898年にイギリスで提唱された都市計画で、都市と農村の融合を目指したものでした。
都心を離れ、郊外に緑豊かな住宅地をつくるための、当時最先端の発想だったのです。
ガーデンシティー構想のダイヤグラム 画像引用元:ウィキペディア
Q2.「ガーデンシティー」が提唱されたイギリスの場所は、下の地図のA、B、Cのうち、どれでしょうか?
A2.A
Bはフランス、Cはイタリアです。
放射状に街が広がる東京・田園調布ではガーデンシティーの原型に近いかたちが実践されていますが、それと比べてY字型の中に格子型に街が構成される桜新町の形態は、やや中途半端に見えます。
ただ、桜新町でこの計画が実践されたのは田園調布に先駆けること10年のことでした。
田園調布駅付近の航空写真
最先端の都市計画から取り入れた要素は、メインストリートだけではありません。
街の中心部に注目してみましょう。
ガーデンシティー計画では、街の中心部に、劇場、コンサートホール、病院、図書館といった人がたくさん集まる公共施設をつくろうとしました。
桜新町のY字路の部分にも、遊園地(公園)や、お風呂屋さんなどがつくられていました。
人が集まる場所として計画されたY字路の中心。
そこから駅へと続く道は商店街となり、街のにぎわいにつながる人の流れが生まれました。
いつも暮らしている中で、人々とすれ違ったり会ったりする。そうして顔を合わせることが重要だったのです。
お互い顔見知りになることで、お互い安心して暮らせるようになっていきます。
桜新町はサザエさん一家が暮らすのにぴったりな、温かみのある魅力的な街に育っていきました。
漫画サザエさんで描かれた、人と人が触れ合う温かい街。そんな桜新町の街づくりが、住宅地・世田谷のはじまりだったのです。
続いては、時代を大きくさかのぼって、世田谷の昔の姿を見ていきます。
実は住宅地として開発されるずっと前から、世田谷は人が住むのにとてもよい場所だったのです。
世田谷の昔の姿を探るために、サザエさん通りから車で10分、桜新町から少し北に向かいます。
城向橋(しろむかいばし)という橋の跡があります。かつてこの辺りに川が流れていて、それにかかる城向橋がありました。
城向という言葉の通り、「世田谷城」というお城があったのです。
世田谷城は、足利家の親戚、吉良(きら)氏が城主でした。
室町時代に築城されたと考えられ、今もその一部は公園として残っています。
世田谷城空堀 画像引用元:ウィキペディア
階段を上がると平らなところに着きます。
お城の中で平らにしてあるところを、「曲輪(くるわ)」と言います。曲輪は物見台のような場所だったと考えられています。
この世田谷城が建てられた地形が、昔の世田谷の魅力を解き明かすカギとなります。
世田谷城は、なぜここに城を建てたのでしょうか。
地形を見ると、鋭角にとがった、舌状台地(ぜつじょうだいち)になっています。
Q3.世田谷城は下の画像のように、川に向って鋭角にとがった地形の上に建てられました。城を建てるうえで、この地形にどのような利点があったと考えられるでしょうか?
世田谷城跡付近の航空写真
※赤三角が城の跡地で、水色が川が流れていた場所です。
A3.川の逆側だけを防御すればよかった。
この地形では、川に面した側の逆側さえ守れば、ほぼ四方の守りが固められるという、防御するうえでの利点があったのです。
うまくこの地形を見抜いて拠点していたことがわかります。
この舌状台地は10万年くらい前に、多摩川がつくった地形に基づいている台地です。城を建てるのに適した、突き出たような地形は、かつての多摩川の流れで削られてできたものです。
実は世田谷には、同じように多摩川の流れがもとになってできた地形がたくさんあります。
かつて多摩川が流れていた跡には、昔も今も小さな川が流れています。この川に近い台地のへりからは、なんと縄文時代の遺跡も数多く見つかっています。
Q4.川に近い台地のへりには、生活するうえでどのような利点があったと考えられるでしょうか?
A4.地盤が安定しているうえに、水に困ることがなかった。
すぐに下りれば水場があって、逆にすぐに上がれば安全な台地があるということで、縄文時代からこの辺りは人が暮らしやすい場所だったのです。
地盤が安定した台地で、水にも困らない。縄文時代から、暮らしやすい場所として、世田谷は選ばれ続けてきました。
ここからは、世田谷城の模型を手がかりに歩いてみます。
歩いていくと急な坂があり、その先に城の痕跡が見られる場所があります。
模型を見ると、堀と土塁が続いているところがありますが、今は団地となっている場所の奥に、怪しい高まりが見えます。
団地は4棟がロの字に並び、かつての曲輪の中に収まっています。
ロの字に並んだ団地の航空写真
団地の奥に高い土塁がそのまま残っています。
本気で城を守るという意志が伝わってきます。
さらに世田谷城の曲輪の奥には、城主が暮らすためのスペースがあったと考えられていますが、今はどうなっているのでしょうか?
たどり着いたのは「豪徳寺」。
豪徳寺は駅の名前にもなっている、世田谷を代表するお寺です。
世田谷城の敷地を利用して、江戸時代に建てられました。
豪徳寺本堂 画像引用元:ウィキペディア
実はここ豪徳寺に、江戸時代に人が世田谷に住んできた理由を解き明かすカギがあるのです。
一見ただのお堂のように見えますが、大変な数の招き猫が祭られています。
招福猫児 画像引用元:ウィキペディア
ここは招き猫を奉納するための場所で、およそ1万5千体(2023年9月時点)もの招き猫が並びます。
豪徳寺の招き猫の由来になったのは、お寺の飼い猫の「たま」でした。たまが福を招いたことから、招き猫として祭るようになったと言われています。
実はこの「猫」がとても重要なのです。
猫をモチーフにしたキャラクターと言えば…「ひこにゃん」です!滋賀県彦根市のご当地キャラクターの「ひこにゃん」と豪徳寺には深い関わりがあるのです。
滋賀県「四番町スクエア」のひこにゃん石像 画像引用元:ウィキペディア
でもなぜ、彦根から遠く離れた世田谷・豪徳寺の猫が「ひこにゃん」のモチーフになったのでしょうか?
その答えは「井伊家」です。彦根藩を治めていたのが井伊家で、豪徳寺は井伊家の菩提寺(ぼだいじ:先祖の墓があって、葬礼・仏事を行う寺)なのです。
実は江戸時代の世田谷は、その井伊家が治めていた場所でした。
そうしたつながりが、彦根と豪徳寺の深い関わりとなっているのです。
Q5.江戸幕府で大老を務めた彦根藩・第16代藩主の井伊直弼(いいなおすけ)が1858年にアメリカ総領事ハリスとの間で調印した条約の名前は何でしょうか?
A5.日米修好通商条約
豪徳寺にある井伊直弼の墓 画像引用元:ウィキペディア
大老・井伊直弼で有名な彦根藩・井伊家は、徳川家康の時代から幕府を支え続けた重臣です。
井伊家が治める彦根藩の領地として、江戸の近くに与えられたのが世田谷の村々でした。その領地は範囲が広いだけでなく、距離的にも江戸に近いところにありました。
世田谷は、彦根藩の江戸屋敷から歩いても2,3時間しかかかりませんでした。それだけ行き来がしやすかったのです。
江戸と世田谷の距離感は、世田谷で暮らす人々にも大きな影響を及ぼしました。
Q6.当時の世田谷で暮らす人々と、江戸との間にはどのような関係があったでしょうか?ヒントは江戸の「食」です。
A6.世田谷でつくった野菜を江戸に売りに行っていた。
世田谷は江戸の隣にあるだけでなく、実はそのほとんどが、水はけのよい台地です。人々は畑作を中心に生活し、つくった野菜を江戸まで売りに行っていました。
傷みやすい野菜は遠くから持ってくることができず、近くから調達していました。
そのため、世田谷などの近郊農村でつくられた野菜は江戸の市中で重宝されたのです。
世田谷は農村地帯ありましたが、江戸の中心部との関わりがとても深く、穏やかで豊かな生活があったと考えられます。
江戸時代の世田谷には、大消費地・江戸の「食」を支える豊かな農村が広がっていたのです。
世田谷の豊かな暮らしを物語るものは他にもあります。
それを探るために、豪徳寺からおよそ700mの場所にある商店街へと向かいます。
その商店街で有名な催し物が行われます。
それは「ボロ市」です。
毎年、12月と1月に開かれる「ボロ市」。骨董品や日用品などが売られ、およそ700もの露店が軒を連ね、4日間で約80万人もの人々が訪れます。
ボロ市の露店の様子 画像引用元:ウィキペディア
実はこのボロ市こそが、世田谷の豊かな暮らしを物語るものです。ボロ市は昔から続いてきた歴史ある市なのです。
ボロ市の始まりは、安土桃山時代までさかのぼります。当時関東地方を支配していた小田原城主北条氏政が、天正6年(1578年)世田谷で開催したことがはじまりと言われています。
Q7.ボロ市のルーツは、「商売にかかる税を免除する政策」である○市です。○の中に入る漢字一文字は何でしょうか?
A7.楽(市)
ボロ市のルーツは楽市でした。実は世田谷は関東で一番早く楽市が認められた場所だったのです。
当時は、毎月6日間も市が開催され、世田谷は商業でも発展していきました。
ボロ市が始まって、およそ450年。この間、ボロ市を守り続けてきたキーパーソンがいます。
そのキーパーソンについて探りにいきます。
着いたのは、「世田谷代官屋敷」です。
世田谷代官屋敷の主屋南面(国指定重要文化財) 画像引用元:世田谷区HP
この家に住んでいた代官こそ、ボロ市を守ってきたキーパーソンなのです。
この家に住んでいた世田谷代官は、江戸時代、彦根藩領であった世田谷の20もの村々のまとめ役を担ってきた人物で、治安維持や年貢の取り立てなどを行っていました。
そのお家は大場(おおば)家です。
その子孫である、大場信秀さんにお話をうかがいます。
大場さんは16代目にあたる方で、大場家初代は1517年生まれでした。
大場家が代官になったのは江戸時代のことですが、その前には世田谷城の城主だった吉良氏の家老を務めていました。
楽市を行うことになった際に、大場家が取り仕切るように命じられたのでした。
世田谷城は戦国時代に廃城になり、城主も世田谷を去ってしまいました。
それでも大場家はこの地に残って、ボロ市を守り、世田谷を支え続けてきたのです。
ボロ市を後世に残していくのが務めと、大場さんは話されます。
楽市が開かれてきた世田谷には、経済的に豊かな暮らしがあったのです。
そしていよいよ明治時代に入り、世田谷は現在のような住宅地になる大きな転換期を迎えます。
そのきっかけになったのが鉄道です。都心と郊外を結ぶ路線が相次いで開業し、沿線にできた住宅地にたくさんの人が移り住んできました。
東西を結ぶ鉄道がたくさんある世田谷ですが、その中にあって南北に走るのが「東急世田谷線」です。
世田谷の住宅地の中を走る世田谷線 画像引用元:ウィキペディア
東急世田谷線は大正14年に開通し、三軒茶屋と下高井戸の間の約5kmを結び、世田谷区内のみを走行しています。私鉄3線を南北につなぎ、世田谷で暮らす人たちの大事な交通手段になっています。
住宅地・世田谷に欠かせない世田谷線がどのようにしてできたのかを探るために、実際に電車が走るところへと向かいます。
向かうのは、代官屋敷から200m、世田谷線の上町(かみまち)駅。
上町駅に到着しました。下高井戸と三軒茶屋をつなぐ線路が、この駅で大きくカーブしていることがわかります。
まさにそのカーブが、世田谷線の成り立ちを示しています。
地図を見ても線路がL字に曲がっていることがわかります。
なぜここでL字になっているのでしょうか?
Q8.世田谷線が上町駅辺りでL字に曲がっている理由とは何でしょうか?下の画像を参考に考えてみましょう。
世田谷線のL字に曲がる線路周辺の航空写真
※黄色線が世田谷線の線路、赤三角が世田谷城跡、青丸が世田谷代官屋敷の位置です。
A8.当時の世田谷の中心地を通る必要があったため。
L字に曲がる場所は歴史的に考えて、世田谷の中の世田谷、まさに中心地で、世田谷城や代官屋敷がある場所だったために、電車を通さなければならなかったのです。
玉電、京王線が開通すると、その間にある、古くから世田谷の中心だった地域に暮らす人たちも、鉄道の誘致活動を始めました。
その誘致の中心になったのが、大場家14代目の大場信續(のぶつぐ)氏でした。
この方は、この世田谷地域のために何としても電車を通したいと考え、まず自分で土地を集め、それを寄付したのです。
玉電もそうした地元の動きに応じて、三軒茶屋から世田谷の中心地を寄って、下高井戸に行く鉄道を結ぶ決意をしました。
昭和になり小田急線も開通したことで、世田谷線は私鉄3線をつなぐ便利な路線となりました。
世田谷区内の路線図 画像引用元:世田谷区HP
利便性が高まり、より住みたくなる街になった世田谷。
こうして94万人が暮らす、東京を代表する住宅地になっていったのです。
古くから世田谷にいた人たちが、地域を盛り上げて行こうと動いたからこそできたのが世田谷線です。
そのおかげで、世田谷は住みたくなる街として、ますます魅力を高めていったと言えるのです。
最後に、世田谷に住む人たちの思いが詰まった世田谷線に乗ってみましょう。
上町駅近くの車庫から、特別に貸し切り電車で三軒茶屋を目指します。
カーブがきついので、電車とホームの間が空き、ブレーキ音も大きいです。
線路際まで家やお店があり、まさに住宅地の中を走っていきます。
若林駅を過ぎてすぐに、目の前に環状七号線が通るため、自動車優先で電車が止まります。
2007年頃の若林踏切(環状七号線を渡る世田谷線) 画像引用元:ウィキペディア
そして電車は終点の三軒茶屋に到着しました。
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