No.1414 『ブラタモリクイズ!四国・宇和島~“ギザギザ”は宇和島に何をもたらした?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は12月9日に放送された四国・宇和島編です。

 今回の宇和島編が年内最後の放送でしたので、ブラタモリクイズメルマガは今回でいったん終了とさせて頂きます。

 今回の舞台は愛媛県の宇和島。南国を思わせる温暖な気候、そしてミカンをはじめとする柑橘類、鯛やブリなど海の幸に恵まれた場所です。秀吉、家康に仕えた城づくりの名手が宇和島にやってきた理由とは?平地の少ない場所に城下町をつくった驚きの工夫とは?宇和島と仙台には深い縁があった?石段の段々畑が宇和島のピンチを救った?ギザギザな地形を利用した意外な娯楽の正体とは?ギザギザが宇和島にもたらしたものとは何だったのでしょうか?宇和島の街づくりの歴史、特徴的な地形を生かした人々の暮らしの変遷を探りながら、その謎を解き明かしていきましょう!

宇和島市の位置 

 愛媛県の宇和島市は松山空港から険しい山を抜けて約70㎞のところに位置します。
 そのシンボルが小高い山の上にある宇和島城です。宇和島城は関ケ原の戦いの少し前、1596年に建てられました。

宇和島城 画像引用元:ウィキペディア

 城をつくったのは藤堂高虎(とうどうたかとら)、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた戦国武将で、大坂城、江戸城の設計・監督をした城づくりの名人として有名です。
 そんな高虎が大名になって、初めて自分の城としてつくったのが宇和島城で、この築城で試行錯誤しながら城づくりの技術を磨いたと言われています。

藤堂高虎 画像引用元:ウィキペディア
 
 天守がある場所まで上ると、高虎の後に建てられたものではありますが、天守が江戸時代の姿そのままに残されています。
 この天守は、現存12天守(江戸時代までに建てられ、今も現存する12の天守)のひとつであり、とても貴重なものです。

 今回のお題、「ギザギザ」とは何かを知るために、海が見渡せるところまで移動します。
 ギザギザに関係するのが、美しい景色です。

宇和島城天守から見た宇和海 画像引用元:ウィキペディア

 目の前に広がるのは宇和海ですが、その海岸線のかたちがギザギザになっています。
 宇和島はリアス式海岸(狭い湾が複雑に入り組んだ海岸地形)が発達して、ギザギザした場所なのです。

宇和島市中心部周辺の空中写真 画像引用元:ウィキペディア

 このギザギザが、高虎が宇和島にやってきたことと関係しています。
 ギザギザした入江を根城にしていたある人々を秀吉の命令で取り込むことが、高虎が宇和島にやってきた目的だったと言われているのです。

Q1.藤堂高虎はどのような人々を取り込むために宇和島にやってきたのでしょうか?ヒントは秀吉が行った海外政策です。
A1.海賊

 高虎が取り込もうとした人々とは、海賊でした。ギザギザした宇和島の入り江は、船の操作に長けた海賊たちの根城となっていました。秀吉は朝鮮出兵に海賊の力を利用するために、高虎を宇和島に派遣したのです。
 ギザギザな地形があったことが、辺境な宇和島に藤堂高虎というビッグネームをもたらしたと言えます。

 ギザギザがもたらしたのは高虎だけではなく、他にもあります。
 今回はギザギザに注目しながら、宇和島がどんな場所なのか探っていきましょう。

 まずは、なぜ宇和島がギザギザしているのか、その理由を探ります。
 そのヒントは海と山の距離が近いことにあります。
 海から少し離れたところに、高月山という1229mある宇和島で最も高い山があります。海のすぐそばに高い山がそびえているということになります。
 宇和島を含む四国の西側は、海のすぐそばに高い山がそびえています。
 また、流れ込む大きな川がないことがギザギザな地形と関係があります。

高月山付近の地形図 

Q2.大きな川がないとなぜ地形がギザギザするのでしょうか?
A2.土砂が運ばれないことで、平地ができづらいため

 例えば同じ四国でも、ギザギザしていない四万十川の河口付近は、もともと谷だった場所が川に運ばれた土砂で埋め立てられています。
 それに対して、高い山がそびえる宇和島がある四国の西側は、大きな川がないので、谷が土砂で埋まっていません。そのため海岸線がギザギザしたままなのです。

四万十川河口付近の地形図
※青矢印の先が四万十川の河口です。 

 平地が少ないギザギザだらけの宇和島ですが、7万石という大名である藤堂高虎は、それにふさわしい城と城下町を築いていきます。
 それでは一体、どんな城下町だったのか、見に行ってみましょう。
 城のふもとにある交差点に向かいます。

 交差点はかつて城の大手門、正面玄関だった場所です。
 お堀だったところは道路になっています。
 かつての絵図を見ると、宇和島が海城(うみじろ:海を水運や防御に活用した城)だったことがわかります。
 お城の向こう側は海でしたが、今は埋め立てられています。ただ、道路や町割りは、ほぼ同じ形で使われています。

宇和島城の航空写真

 この場所は、ギザギザだらけの宇和島で貴重な平地がある場所ということになります。
 高虎はこの場所にある工夫をして、城下町を築いていきます。
 どんな工夫だったのかは、東西の高低差を見ていくとわかります。
 道を東に進みながら見ると、西側が低く、東側が高くなっています。
 そして、その間にわずかな「へこみ」があります。この「へこみ」こそ、高虎の工夫に関わる痕跡なのです。
 さらに東へ歩くこと10分、道が急に下がっていき、川にたどり着きます。そこが城下町の外れにあたります。
 振り返ると、微妙なへこみが見られます。

「へこみ」のイメージ図

Q3.道の途中にある「へこみ」はなぜできたのでしょうか?
A3.もともと川があったのを別の場所に移したため。

 実はかつてそこに川があったのを、現在の川がある場所につけ替えたのです。この川のつけ替えこそが、高虎が城下町を築く際に行った工夫でした。
 もともと流れていた川を山際に移し、狭い平地を最大限に利用したのです。
 さらに、移した川には小規模な扇状地ができました。ただ、その川の水量は少なく、扇状地の範囲を見ると、1本の川でできるものでないことがわかります。
 実は2本の川がつくった扇状地だったのです。

扇状地をつくった2つの川

 平地がほとんどない宇和島に、扇状地がもたらされたのは、小さいながらも2つの川があったおかげでした。
 ギザギザだらけの宇和島の貴重な扇状地を上手に利用して、高虎は城下町を整備していったのです。

 こうして立派な城下町をつくった高虎でしたが、宇和島にいたのはたった6年で、その後出世をして転勤していきました。
 藤堂高虎がいなくなった後、誰が宇和島を治めたのでしょうか?
 実はその歴史を見ていくと、ギザギザな宇和島がどう発展したのかわかります。

 あるお屋敷にその答えがあります。お屋敷の門に家紋が残っています。

Q4.宇和島のお屋敷にある家紋は、仙台のある家のものでした。その家の第17代当主である人物は、仙台藩初代藩主となった戦国大名です。その人物とは誰でしょうか?
A4.伊達政宗(だてまさむね)

伊達政宗像 画像引用元:ウィキペディア

 その家紋はなんと仙台の伊達家のものです。実は宇和島にも伊達家があったのです。
 宇和島にやってきたのは、政宗の長男の秀宗(ひでむね)でした。
 秀宗は政宗の側室の子で、当初は長男で跡継ぎ候補だったのですが、9歳の頃に政宗の正室に子どもが生まれたことで、跡継ぎではなくなってしまいました。
 そんな秀宗を不憫に思った政宗が家康に働きかけたことで、秀宗は10万石の大大名、初代宇和島藩主としてやってきました。

宇和島紋 画像引用元:ウィキペディア

 ただ、10万石とはいってもギザギザだらけの宇和島は農作物をつくるのに向いていません。
 さらに秀宗がこの問題を悪化させてしまいます。
 藤堂高虎から受け継いだばかりの宇和島藩の領地はもともと広かったのですが、秀宗が隠居する際の宇和島藩の領地は、別の藩の領地が点在して、飛び飛びになってしまいました。
 実は新たに吉田藩という藩の領地が、宇和島藩の領地の中に出てきました。
 つまり藩が分裂したのです。
 秀宗は側室を寵愛していたという記録があり、その側室の子が五男でありながら、独立した領地を与えられてしまいました。
 このことに、2代目を継ぐ宗利(むねとし)は、10万石を継げると思っていたので、強い不満を抱きました。
 平地の少ない宇和島で初代の秀宗が跡継ぎではない子に領地を与えてしまったことが、宇和島藩にピンチを招いてしまったのです。
 大きな米どころが、ほとんど吉田藩のものになってしまい、宇和島藩にとってはただでさえ少ないお米が半減してしまうという大変な事態になりました。
 
 しかし、2代目の宗利が、このピンチを上手に乗り越え、宇和島を発展させていくのです。
 それは、宇和島の中でも特にギザギザした、下の赤丸で囲んだ場所の人々の暮らしを見ていくとわかります。

 船に乗って、その場所を目指します。

 船に乗って20分、見えてきたのは、山の斜面に広がる石垣に囲われた段々畑です。地元ではこの段々畑のことを「段畑(だんばた)」と呼んでいます。
 ここで江戸時代に何をつくっていたのでしょうか?
 
Q5.江戸時代に段畑で栽培されていた作物とは何でしょうか?ヒントはこの場所に大きな川がなく、急な斜面にあることです。
A5.サツマイモ

 この場所で栽培されていたのは、サツマイモでした。
 お米がとれない宇和島でサツマイモがつくられたのには、ある理由がありました。
 サツマイモの栽培には、水があまり必要ではありません。
 宇和島のギザギザの山には大きな川がないので、水がなく、また段畑は急な傾斜につくられているので、雨が降っても流れてしまいます。そこで、水がなくても育つ作物をつくるしかなかったのです。
 江戸時代から始まったサツマイモの栽培は、昭和30年頃まで続き、この辺りの山はほぼすべて段畑になりました。
 そして段畑がこれほど広まったことに、領地をとられた2代目・宗利が関係しているのです。

 2代目・宗利の時代の出来事が書かれた資料に、「山分勝手開作可申」といった表記があります。
 山の斜面を分けて、耕作地を作る、という意味ですが、ポイントは「勝手」という言葉です。
勝手に、自由にとあるように、藩はこの段畑を管理しない、ということが記されているのです。
 つまり、この段畑から藩への税は、納めなくてよいということになります。

Q6.通常、畑の作物には税がかけられますが、段畑の作物には税がかけられませんでした。それはなぜでしょうか?ヒントはこの場所の近くに何があるかということです。
A6.海でとれる魚に税をかけていたため。
 
 段畑の作物に税がかけられなかった理由には、海が関係しています。
 海でとれる魚には、値段の5分の1を税として納めることが定められていたのです。
 魚の種類とそれぞれの売り値を示した資料が残されています。イワシ、イサキ、ハマチ、ハマグリなど、それぞれに細かく売り値が決められ、その5分の1の金額が藩に納められていました
 つまり魚に税がかけられていたのです。
 藩の貴重な財源は魚でした。
 そして段畑は、魚をとる人々の暮らしを支える食料をつくる場所ということで、藩も大目に見ていたということになります。
 この制度をつくったのは、領地の件で苦汁を飲んだ2代目の宗利でした。
 
 段畑を自由に耕作させ、海の魚から税をとることで、宇和島藩は見事ピンチを乗り切ったのです。
 そして、この海と段畑が現在の宇和島にも恵みをもたらしています。
 宇和島はマダイ、シマアジの養殖が日本一です。その他にもブリ類、クロマグロ、真珠なども養殖しています。
 というのも、宇和海では養殖用の生けすをたくさんつくることができるからなのです。

Q7.ギザギザな地形の宇和島が養殖用の生けすをつくるのに向いている理由とは何でしょうか?
A7.川がないことで土砂が流入せずに陸からすぐに海が深くなるため。

 ギザギザの海岸線には川がないことで、土砂が流入しないから浅くなりません。
 陸からすぐに海が深くなるため、養殖の生けすをたくさんつくることができるのです。

 その後、昭和30年代に水道が整備されると、段畑は柑橘類を栽培する場所へと生まれ変わりました。
 魚の養殖、柑橘類は、現在の宇和島を支える主力産業になっています。

宇和島で養殖された「みかんブリ」と「みかん鯛」 画像引用元:中国四国農政局HP

 そんな宇和島が生んだ名物はじゃこ天と鯛めしです。
 鯛めしは養殖が盛んになるとともに広まった漁師めしと言われています。
 そしてじゃこ天ですが、同じく魚のすり身を使った仙台の名物、「笹かま」と関係しています。
 宇和島のじゃこ天は、一説には伊達家が仙台から持ち込んだかまぼこがルーツだったと言われています。

じゃこ天 画像引用元:農林水産省HP

 ギザギザがもたらしたものは食料だけではありません。
 人々が暮らしていくには娯楽も必要です。娯楽とギザギザにどのような関係があるのでしょうか?

 ギザギザがもたらした娯楽とは何なのかを見にいきます。
 山の斜面に先程見た段畑のようなギザギザが見えます。そこはまるでローマ時代の劇場のようです。
 そこで行われていたのは、なんと闘牛でした。娯楽とは闘牛のことだったのです。
 宇和島の闘牛は、農耕用の牛を闘わせたのが始まりと言われ、江戸時代の終わりから盛んに行われてきました。
 ここは段畑を闘牛場に作り替えた場所だったのです。

Q8.闘牛場があったギザギザな谷の地形は、どのような点で闘牛に向いていたのでしょうか?観客席と安全面から考えてみましょう。
A8.段差を観客席にできた。牛が逃げても谷の入口をふさげば安全だった。

 闘牛場では谷の地形を利用して、段差を観客席にして、その下に土俵がつくられました。また、牛が逃げたとしても、谷の入口に柵をしておけば問題ありませんでした。
 ギザギザの谷地形は闘牛場にもってこい場所だったのです。
 最盛期の昭和のはじめには、ギザギザの谷を利用した闘牛場が、なんと100以上もつくられました。強い牛を持つことは、宇和島の人々にとってステータスだったのです。
 
 実際に現在も闘牛が行われる「宇和島市闘牛場」にいってみましょう。

宇和島市闘牛場の外観 画像引用元:宇和島市HP

宇和島市闘牛場の内観 画像引用元:宇和島市HP

 現在は年に4回(1月、5月、8月、10月)、闘牛大会が開催されています。
 宇和島の闘牛は、平成7年に文化庁無形民俗文化財に選択されました。
 闘牛の決着は、相手に背を見せて、一方の戦意が喪失すると勝負あり、とされます。

闘牛の様子 画像引用元:宇和島市HP

 牛は大きいものになると1トン200キロ近くにまでなります。生まれて1年くらいから練習を始めて、1回、2回対戦すると3回目くらいからは、牛を見ると自分から向かっていくようになります。
 トラックのエンジン音を聞くと、闘牛場に連れてきてもらえるとわかり、興奮するようになります。
 愛媛県でも南の端の方になるので、闘牛は大事な娯楽のひとつ、なくてはならないものなのです。

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