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amazon『オランジェット・ダイアリー』黒川裕子(光村図書)
表紙だけを見ると小学校低学年対象で中学受験の出典としてのイメージがしづらいかもしれませんが、いざ読んでみると、その印象は大きく覆されます。重要テーマが混在するうえに、中学受験国語における高難度の表現技法「象徴的存在」が使われている、まさに読解力を養成するエッセンス満載の一冊です。朝日中高生新聞に2022年10月から2023年3月まで連載され、加筆・修正のうえ書籍化された本作品は、愛媛県の宇和島市とアフリカのガーナを舞台に、2人の中学3年生が進路について、自分の生き方について、時に家族と衝突しながら葛藤する様子が描かれた成長物語です。著者の黒川裕子氏は、『夜の間だけ、シッカは鏡にベールをかける』(『YA! アンソロジー わたしを決めつけないで』所収)が駒場東邦中(2020年度)で、デビュー作の『奏のフォルテ』(第58回講談社児童文学新人賞佳作に入選)が成城学園中(2020年度第1回)で出題されています。また、『天を掃け』が中学入試ではありませんが、2020年度山口県公立高校で出題されました。
時に荒々しさを放つ中学生ならではの息づかいが伝わってくるような会話と、軽快なストーリー展開でつづられた本作品もまた、来年度入試の出典として注目される可能性が高くあります。読みやすい文体で書かれているだけに、男子校・女子校を問わず、中堅校から上位校まで幅広い学校での出題が予想されます。
≪主な登場人物≫
本宮樹々(もとみやじゅじゅ:愛媛県宇和島市に住む中学3年生の女子。実家は先祖代々みかん農園を営んでいる。祖父や父の選果[せんか:果実をその大きさ、品質などによって選び分けること]の手伝いをしており、ひと目でみかんの規格サイズを見抜くことができる。中学卒業後の進路を決める時期にあるが、将来の目的がおぼろげではっきりと見えないままでいる。)
杉本リク(すぎもとりく:樹々の同級生で、日本人の父親とガーナ人の母親のもとで生まれた。小学3年生の時に父親の故郷である樹々の住む町に引っ越してきた。樹々に連れて来られたことをきっかけに通い始めたバレエ教室で頭角を現し、世界一のプリンシパル[そのバレエ団の主役級のダンサー]になることを夢にしている。母親の用事で、夏休み直後からガーナに滞在している。)
佐藤トモオ(さとうともお:樹々のクラス担任の先生。)
≪あらすじ≫
樹々とリクは、リクが小学3年生の時に樹々の住む町に引っ越してきてから兄弟のように同じ時間を過ごしてきました。はじめてリクに出会った時のリクの踊るダンスの魅力に惹きつけられた樹々は、自分が通っていたバレエ教室にリクを連れて行きます。はじめは乗り気でなかったリクも、その才能を教室で開花させ、やがて世界一のプリンシパルになるという夢を持つようになります。一方で、リクとの実力差を目の当たりにした樹々はバレエを辞め、自らを「平凡な女の子」と称して、将来の目的も明確に持てないままに日々を過ごしていたのでした。
※テーマについては、メルマガ「中学受験の国語物語文が劇的にわかる7つのテーマ別読解のコツ」で詳しく説明していますので、ぜひご覧になりながら読み進めてください。
この作品の中学受験的テーマは「自己理解」、「家族関係」です。自己理解のパターンの中では、「挫折からの再生」に分類されます。このパターンでは、部活などでの失敗や、友人関係・家族関係が破綻した際に、自分に向き合うことで再生して行く過程で心を成長させるといったケースが典型ですが、本作品でも、主人公の樹々が、将来の目標が持てない自分の現状に強い危機感を持ち、やがてリクという存在から刺激を受けながら自分の進むべき道を見出して行くといったかたちで、「自己理解」のパターンが丁寧に描かれています。
また、「家族関係」というテーマでは、家族に反発していた主人公が、家族の想いを知り、自分が家族に支えられていることを認識して、心を成長させるといった過程が描かれるのが基本パターンですが、本作品もまさにこのパターンが当てはまり、特に農園で働く祖父の自分への想いを知った樹々が、自分の将来についての考え方を定めて行く過程には、家族関係というテーマの王道が示されています。
そして、本作品の大きな魅力のひとつに、「多文化共生」という新たな重要テーマが含まれている点が挙げられます。樹々の目を通したみかん農園の現状、そしてリクの目を通したガーナのカカオ農園での労働の実情が丁寧に表されたうえで、物語の最後に愛媛とガーナがある接点を通してつながって行くという過程に、まさに多文化共生というテーマの骨子となる部分が描かれています。物語終盤の以下の表現がそれを端的に表しています。
中学受験において今後、その重要性、出題頻度が増して行くと思われる「多文化共生」というテーマを、わかりやすい文章で学ぶという稀有の機会を、本作品は提供してくれます。
ここで、「象徴的存在」がどのようなものであるかについて、ご説明します。
中学受験の国語で使われる象徴的存在とは「一見関係がないと思われるが、実は登場人物の心情・人間関係などを象徴的に表しているもの」を指します。例えば、転校して行く友人との別れを終えた主人公が見上げた空が美しい夕焼けだった、といった場面での「夕焼け」に、友人と別れたことの悲しさ、あるいは2人の将来(明日)が晴れやかなものになるといった意味が暗に示されている、といったパターンです。
こうした象徴的存在が中学受験の物語文で出題対象になるケースが、開成中、桜蔭中、学習院女子をはじめとした上位難関校で多く見られますが、特に出題頻度が高いのが麻布中です。2005年度『タオル』(重松清)での「タオル」、2008年度『循環バス』(安東みきえ)での「鏡(窓ガラス)」、2011年度『あくる朝の蝉』(井上ひさし)の「蛍」と「蝉」、そして2018年度『緑の子どもたち』(深緑野分)の「美しい音楽」などが該当します。2023年度『タイムマシンに乗れないぼくたち』(寺地はるな)では、主人公の草児が孤独感から解放される様子が、それまで甘いと感じなかったコーラの甘さを感じられたという変化を持って表されており、「コーラの甘さ」が主人公の心情の変化を象徴的に示していました。
本作品においては、この後の予想問題で題材とする「沢ガニ」、「ゴボウ根」の他に、リクがガーナで栽培に携わった「カカオ」において、「カカオは何度も生まれ変わる」(P.103の12行目)との表現を通して、「人の成長」が象徴的に示されています。そしてタイトルにもある「オランジェット」が、まさに「多文化共生」を象徴的に示す存在となっているのです。
麻布中での象徴的存在が、その存在についての説明を本文中で明確に示していないのに対して、本作品では象徴的存在となる対象がどのような性質を持ったものであるかについての説明がなされており、その性質を踏まえて象徴的に示された内容を読み取れることができるかたちになっています。その点で、本作品は、象徴的存在を読み取る力を養成するための入門書としての価値を有していると言えます。
担任の先生との進路面談の場で、それぞれに身勝手な発言をする両親と祖父へのいら立ちをあらわにする樹々の様子と、その後、将来の目標を持てないままでいることに危機感を抱く樹々の姿が描かれた場面です。樹々が幼なじみのリクと自分を比べながら、どのように自分に向き合っているのか、またそこで沢ガニ、ゴボウ根といった存在がどのような効果を物語にもたらしているのかを的確に読み取ることがポイントとなります。
P.49の5行目から7行目に「おまえはええねえ、横歩きができて―樹々は内心ため息をついた。中学三年生なんて、前にしか進めないし、足を止めずまっすぐ歩くことしか求められていない。」とありますが、このときの樹々の様子を説明したものとして、最も適切なものを次の中から選び、記号で答えなさい。
ア.夢に向かって突き進むリクと比べて、何の目的も持てない自分が情けなく感じられ、懸命に生きようとする沢ガニの姿に勇気をもらっている。
イ.将来の夢を持って、その実現のために行動することを周りから強要されることに抵抗を感じ、自由に動く沢ガニの姿をうらやましく思っている。
ウ.将来の夢や目的を探そうとしているのに、それを妨げようとする家族の態度に納得が行かず、制約されずに動くことができる沢ガニに憧れている。
エ.農園を継がせようとする祖父と反対する両親の板挟みになっている自分と横歩きする沢ガニの姿が重なり、沢ガニに共感を抱いている。
将来の夢を決められず、祖父や両親が進路について干渉してくることにいら立ちを隠せないでいる樹々が、足元で動く沢ガニを見てもらした心の声が問題対象となっています。ここでは、沢ガニの「横歩き」と、自分を含めた中学三年生の「足を止めず、ただまっすぐ前に進むことしか求められていないこと」を比べて、沢ガニのようでありたいと感じている樹々の様子が表されています。樹々が横歩きをする沢ガニをうらやましく思うのは、ただまっすぐ前に進むことしか求められていない自分たちの現状に不満を抱いているからと考えられますが、樹々の心情を理解するためには、ここで言う「まっすぐ前に進むこと」が示す内容を正しくとらえる必要があります。
問題該当部の直前、樹々は担任のトモオ先生との進路面談の場で、勝手な発言をする家族に憤りを感じていました。樹々に農園を継がせたいと思うだけでなく、「リクがムコにきてくれたらええんじゃけどなあ…」(P.41の10行目)などと無責任に言い放つ祖父、そして樹々が農園を継ぎたくないと思いこんでいる両親の言動に、樹々は戸惑い、憤ります。特に母親が「将来のこと、よう考える時間を与えてやれんかったやないかと後悔しとるんです。(中略)娘のことだけに娘のことだけに、迷子になっとるのがようわかる…」(P.42の4行目から6行目)と発言した際の樹々の反応が以下のように表されています。
自分を心配してくれているようにも感じられる母親の言葉ですが、樹々にとっては、なぜそれを進路面談の場で言うのかという疑問と不満を抱かせるものでした。以下の樹々の心の声に、その心境が表されています。
ここでの「こっぱずかしい」という言葉には、他人である担任のトモオ先生の前で家族のまとまりの無さを露呈する恥ずかしさというよりも、家族が自分の将来について本音で話す機会を持とうとしなかったことへの不満、そして家族が本気で自分のことを考えてくれていないという樹々の憤りがにじみ出ています。
そんな樹々の心情が以下の言葉に集約されています。
ただ、樹々のいら立ちの原因は家族に対する不満だけによるものではありません。樹々自身が将来の夢、目標を定められていれば、それを進路面談の場ではっきりと表明することができたでしょうし、家族から反対されても、自分を蚊帳の外にして家族がもめるような局面にはならなかったかもしれません。樹々のいら立ちは、自分の将来への展望がおぼろげではっきりしないことへの焦りと不安に起因しているのです。そのきっかけとなったのが、リクの存在です。
小学3年生の頃から長い時間を一緒に過ごしてきたリクですが、樹々にとっては、自分にないものを持つ憧れの存在となっています。そのことが以下の樹々の言葉に示されています。
そんなリクと比べて、明確な目的も持たないまま、クラスの半分が受験する地元の公立高校に進学し、平凡でありふれた生活を選ぼうとしている自分の姿に引け目を感じている樹々の心情が以下のように表されています。
自分の中にナビ(ナビゲーション)のような確かな方向性を示すものがなく、そのことをリクにも気づかれている樹々の恥ずかしさ、情けなさが強く伝わってきます。夢を持つ自分をイメージすることができないでいる樹々は、夢を持たないことが良くないものと決めつけられる状況が受け入れられないでいます。それが以下の母親への不満の言葉から読み取ることができます。
ここまで読み進めてみて、問題該当部で樹々が言う「足を止めず、ただまっすぐ前に進むこと」とは、中学三年生として、将来に明確な夢と目標を持って、その実現に向けて進むことを指していると考えることができます。そんな樹々には沢ガニの「横歩き」が、夢を持って生きるべきという周りからの圧力に押しつぶされることなく、歩きたいように歩く「自由の象徴」として映ったと読み取ることができるのです。
そこで選択肢を見てみると、まずエについては、樹々は家族の板挟みになっているという表現が誤りである上に、ここでの樹々は沢ガニと自分の「違い」を感じているため、共感という言葉も不適切です。また、樹々は沢ガニと今の自分に違いを感じてはいますが、沢ガニの姿を見て勇気をもらっている様子は描かれていませんので、選択肢のアも誤りとなります。選択肢のイの冒頭、「自分の夢や目的を探そうとしている」は、夢を探すこともできていない樹々の現状とは異なりますので、不適切です。よって正解はウとなります。
ウ
「ゴボウ根」が最初に(章のタイトルは除きます)出てくるのは、樹々がガーナに滞在しているリクと電話で話した後、みかん畑に帰ってきた場面で、以下のような描写で表されています。
そしてカミキリムシの被害にあって枯れた樹について樹々は、以下のように心の中でつぶやきます。
そして、この直後に樹々が心の内を以下のように吐露します。
ここまでで、「ゴボウ根」の本来の意味が厳しい環境の中にあっても生きるために土中深くに下りる根のことを指し、樹々がそのゴボウ根を張る前に枯れてしまった樹と自分を重ねていること、このままでは自分も枯れた樹のように生き抜く力を持てないままになってしまうと危機感を抱いていることがわかります。
樹々がここまでの危機感を抱くようになったきっかけは、リクとの電話にあります。そこで樹々は、リクがバレエ教室の奨学金を得て、樹々が志望する学校ではない公立高校の通信制に通う意志があることを知ります。リクが具体的な将来の展望を抱いていること、それを教えてくれなかったこともショックでしたが、樹々にとって最も心を傷めたのは、次の内容でした。
リクから電話で通信制の公立高校の話を聞いた時に、樹々の頭の中では、リクが通うなら同じ学校を志望していたかもしれない、という想いが一瞬よぎったのでした。
学校選びにも自分の考えがなく、ただリクと同じ環境にいられるとの想いで安直に志望校を変えようと考えた自分に、樹々は嫌悪感を抱いたのです。
そんな自分を「迷子」と称した樹々は、さらに次のように自分自身の現状を表します。
そんな自分とは異なり、目標を定めて突き進んで行くリクの姿が、樹々の目には以下のように映っているのです。
そして、今のままの自分ではいけないという危機感が、以下の言葉ににじみ出ています。
樹々にとって「ゴボウ根」とは、単に植物の根という存在だけでなく、厳しい環境の中で生きていくために自分を支える芯となる強い意志という存在に見えていると言えるでしょう。樹々は、自分の生き方をしっかり具体的に考えているリクはゴボウ根を張った生き方をしていると考え、それに対して敵わない夢を持とうとしない自分にはゴボウ根がなく、このままでは枯れてしまうと強い危機感を抱いていると読み取ることができるのです。
厳しい環境を生き抜くために自分を支えてくれる、目標を実現させようという強い意志。(40字)
本作品の魅力としてどうしても挙げておきたいのが、情景描写の美しさです。特に樹々が暮らす町の情景には、移り行く樹々の心情が如実に反映されていて、情景に心情の理解を促す効果があることを再認識させられます。それが顕著に表されているのが、物語終盤の以下の部分です。
自然の持つ色彩、香り、そして音の美しさが伝わってくる、まさに五感を優しく刺激する情景描写です。こうした美しい描写に触れることは、物語文の世界を視覚的にとらえる貴重な訓練となります。
「自己理解」「家族関係」「多文化共生」といった重要テーマが絶妙に混ざり合い、「象徴的存在」が効果的に人物たちの心情を際立たせ、それらを包み込むように美しい情景描写が散りばめられている。中学受験物語文読解の重要なエッセンスがひとつの作品にここまで集約されるのは稀なことです。6年生はもちろん、5年生、読書好きな4年生の皆さんに、ぜひ読んで頂きたい一冊です。
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