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今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は5月20日に放送された京都・山科(やましな)編です。
京都駅からJR線で一駅、三方を山で囲まれた小さな盆地に立地する山科。京都郊外のベットタウンとして人気で、四季折々の風情が楽しめる場所です。京都盆地に比べてあまり存在感がないように見えますが、実は山科は日本でも極めて重要な場所、「要衝(ようしょう)」として歴史的に高い価値を持っているのです。山科になぜ歴史的に重要な交通ルートが集結したのか?不思議な石に残された画期的な交通システムとは?その後の城建築に多大な影響を与えた先進的な技術とは?要衝であり続けた山科だからこそ生まれた数々の先進的な技術の謎を探って行きましょう!
Q1.五街道のひとつで、現在の滋賀県・大津と京都を結ぶ街道は何でしょうか?
A1.東海道(とうかいどう)
東寺:画像引用元:ウィキペディア ※1の青線が東海道です。
まず「要衝」という言葉ですが、交通や商業などの面で「大事な地点」という意味です。山科が要衝と呼ばれる要因のひとつに、交通ルートが集結している点があります。それを物語るのが、山科盆地の北東部(滋賀県)にある「逢坂関(おうさかのせき)」です。逢坂関は和歌でも登場することが多く、特に有名な和歌が百人一首にも収められた、平安時代前期の歌人・蝉丸(せみまる)による「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」です。「ここを行く人も別れる人も、それぞれに相手を知っているか知らないかにかかわらず、皆ここで会うのだな」という現代語訳になります。最後の「あふ坂」が「逢坂」という地名と、人と人とが「逢う」の掛詞になっていますね。この和歌にもあるように、逢坂関は多くの別れや出会いがある、つまり交通の要所だったのです。当時の主要道路である「東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道」が逢坂関で合流していました。
Q2.山科・逢坂関は水運ルートをつなぐ場所でもありました。東側には琵琶湖があり、日本海側に行くことができる水運ルートがありましたが、南側にも、「ある川」から瀬戸内海へ通じる水運ルートがありました。その川とは何川でしょうか?※下の地図を参考にしてください。赤丸が逢坂関の位置です。
A2.淀川(よどがわ)
淀川:画像引用元:ウィキペディア
淀川は、滋賀県・京都府・大阪府を流れる日本の一級河川です。山科・逢坂関は日本海側、瀬戸内海へ通じる2つの水運ルートをつなぐ大事な場所、まさに「要衝」だったのです。
それでは、なぜ重要な交通ルートがこの場所に集まっていたのでしょうか。
逢坂関の辺りは峠になっていて、幕末や昭和に掘り下げられたと言われていますが、平安時代にこの場所を通る旅人たちにとっては高い峠を越えなければならない難所でした。ただ、距離としては直線で約300mと短いものでした。その理由はこの逢坂関につながる大きな谷があったためで、山科からは谷を通って進み、短い逢坂峠を越えさえすれば、琵琶湖や大津はもうすぐそこだったのです。もともとあった谷を利用することで、難所である峠の距離が短くなり、交通ルートも集まりやすくなったと考えられます。
では、この人々が行き交うのに絶好の場所となった峠を生み出すことにつながる「谷」はどのようにしてできたのでしょうか。
Q3.逢坂峠の周辺に大きな谷ができた要因となった、地形的な特徴とは何でしょうか?
A3.断層が多かったこと。
逢坂峠の辺り一帯には小さな断層が複数あり、その影響で岩盤が弱くなり、川の流れに削られやすくなったことで大きな谷ができたと考えられています。それでは小さな断層はなぜできたのでしょうか?逢坂峠の南北には断層に囲まれた山の高まりがあり、この南北2つの高まりが隆起することで逢坂峠の付近は谷あいになりました。南北の土地が動くことで、逢坂峠の辺りの地盤にはストレスがかかり、それによって小さな断層が多数生まれたのです。断層が多いという地形的な特徴がこの地に大きな谷を生み、それにより峠が短くなったのでした。
多くの人々が行き交う逢坂峠に近いことで、山科は「要衝」となったのです。ここからは、要衝・山科だからこそ生まれたものについて見て行きます。
江戸時代の大津から京都・三条大橋へとつながる「東海道」。京都―大津間の距離は約12㎞ですが、ここには要衝だからこそ生まれた交通システムがあります。
Q4.東海道沿いの地域では、下の写真のような中央に溝がある、くぼんだ形の石が見られます。この直線的な溝は何の跡でしょうか?
画像引用元:ウィキペディア
A4.「牛車(うしぐるま)」が通った跡
上の写真の石は「車石(くるまいし)」と呼ばれるもので、写真は滋賀県大津市の閑栖寺に復元された車石です。
牛車とは、牛に引かせる荷車のことで、今で言う軽トラックのようなものです。現在は主に石垣に使われている車石ですが、かつては東海道の京都―大津間に作られた牛車専用の道(現在で言う車道)に敷かれていました。この石を敷くことで、牛車の車輪がぬかるみにはまらないようにしていたと考えられています。実は車石はもともと表面が平らな、溝のない石でしたが、牛車が通ることで削られて、くぼんだ形になりました。車石自体は他にも京都に数か所あったと言われていますが、約12㎞という長距離にわたって車石が敷かれたのは、日本の中でもこの場所だけでした。
Q5.東海道の京都―大津間に車石を敷いた牛車専用の道があったのはなぜでしょうか?
A5.京都と大津を結ぶ水路がなかったため。
当時、大量の荷物を運ぶ主な手段は「舟」でした。京都―大津間は重要なルートであったにもかかわらず、荷物を運ぶのに適した水路がなかったのです。そのため、東海道に車石を敷いて物資をスムーズに運搬できるようにしたと考えられています。
車石は、山科がいかに重要な場所、要衝であったかを物語る痕跡であると言えます。要衝・山科で生まれた画期的な交通システムがあったことを今に伝えています。
山科で生まれた次なるものは、山科盆地の真ん中あたりで見ることができます。この地にまるで古墳のような茂みが残っていますが、その正体は巨大な土塁(どるい)でした。
Q6.山科盆地の真ん中あたりに作られた土塁と堀は、何のためのものだったでしょうか?
A6.山科本願寺(やましなほんがんじ)を囲むためのもの。
蓮如影像(室町時代作) 画像引用元:ウィキペディア
山科本願寺は室町時代に浄土真宗の拠点として造られました。高さにして8~10m、幅30mの巨大な土塁と堀が、寺と周りの町を囲んで築かれました。寺を囲むものとして、その規模は日本屈指であったと言われています。
山科本願寺を造ったのは蓮如(れんにょ)です。蓮如は本願寺の勢力を一気に拡大させた人物です。当時、北陸地方や東海地方、大阪方面に布教を進めていた蓮如にとって、要衝・山科は人や物の行き来が盛んだったため、拠点とするには最適だったのです。
しかし時代は戦国乱世。本願寺は強大な勢力を持っていたため、要衝に拠点を置くと、他の大名や宗派に攻撃される可能性がありました。そこで、防衛のため、50年ほどかけて、巨大な土塁や堀といった形を作り上げたと考えられているのです。
山科本願寺は南北約1㎞、東西約800mもの規模でしたが、ただ大きくて広いだけではなく、実は後世にも伝わるある先進的な技術が培われたと考えられています。
堀の痕跡をたどるとその技術がわかってきます。
Q7.下の空中写真の茶色の部分が山科本願寺を囲む土塁と堀です。この土塁と堀の形状の特徴とは何でしょうか?
山科本願寺の城郭部分/昭和62年度のカラー空中写真 画像引用元:ウィキペディア
A7.「折れ」の構造が多数見られること。
写真のように、山科本願寺を囲む土塁と堀には、直角に折れ曲がる場所が何か所も見られます。この「折れ」の構造こそが、山科本願寺が作り出した先進的な技術だったのです。土塁と堀が屈曲した「折れ」の構造によって、正面と側面の両方から敵を攻撃することができます。さらに、山科本願寺の「折れ」は外側を通る道と対応していて、道をたどって攻めてきた敵がより攻撃しやすい場所に「折れ」を作るという工夫もあったのです。「折れ」が多くあればあるほど、つくりはより堅固になります。山科本願寺で、土塁と堀がかなり高い技術で計画的に作られていたことがわかります。
この「折れ」はその後の城の建築で多く見られますが、城で多く導入される約50年前に、山科本願寺ではすでにこのような形状が見られていました。山科本願寺の「折れ」を元に、多くの城がこの技術を取り入れたのかもしれないと考えられています。
山科本願寺の土塁と堀には、日本の歴史において極めて重要な価値があり、山科が要衝だったからこそ生まれたものであったと言えます。
ちなみに、山科本願寺があった場所の中心部に数段の階段の跡があり、そこに「蒸し風呂」、今で言うサウナがあったことがわかっています。当時、茶の湯を楽しんだ後に蒸し風呂に入るのが一種のステータスでした。寺でありながら、その中に饗宴を楽しむような場所があって、大変豊かな暮らしがそこにあったと考えられています。
山科では明治時代に入ってからも、ある先進的なものが生まれました。
Q8.山科盆地の東側にある急な坂道の途中には、人が通るトンネルがあったと考えられる跡が残されて
います。そのトンネルの上には何があったのでしょうか?
A8.鉄道
かつてトンネルがあった場所の上は現在大きな道路になっていますが、かつてそこには鉄道が走っていました。京都と大津を結ぶ「旧東海道線」が走っていたのです。この路線は、明治13年に日本で4番目に開業した旅客用の鉄道でした。
Q9.京都と大津を結んだ路線は日本で4番目に開業した旅客用の鉄道ですが、明治5年に日本で最初に開業した旅客用の鉄道は、どことどこの間を走っていたでしょうか?
A9.新橋と横浜
ちなみに2番目は明治7年に開業した大阪と神戸を結んだ路線、3番目は明治10年に開業した京都と大阪を結んだ路線です。
旧東海道線は現在の東海道本線よりも南に迂回して、山科を通って遠回りしていました。山に沿って線路ができたことがわかります。実は旧東海道線は、日本で初めて山越えに挑んだ鉄道路線だったのです。明治時代、日本の近代化にとって京都と琵琶湖をつなげることは最重要課題でした。そこに立ちはだかったのが標高325mの「逢坂山」、別名「関山」です。この逢坂山を通す、日本で初めての山岳トンネルが計画されました。
Q10.逢坂山を越えるために、ある国の機関車が輸入されました。その国とはどこでしょうか?
A10.イギリス
イギリスから輸入されたタンク式蒸気機関車 画像引用元:ウィキペディア
日本で初めての山越えに挑むため、イギリスから新たにパワーのあるタンク式蒸気機関車を輸入するなど、山がちな日本で鉄道を通していく礎(いしずえ)となる技術が多く導入されました。京都―大津間の鉄道敷設は初めてづくしの一大プロジェクトだったのです。工事を担当した日本の技術者たちは、その後、他の鉄道開発にも関わってどんどん活躍していきました。
このように、山科が多くの人々から必要とされる要衝であり続けたからこそ、時代の先端を行くものの数々が生み出されたのです。
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