No.1326 『ブラタモリクイズ!種子島~種子島は地球のチカラを感じる島!?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は6月3日に放送された種子島編です。

 鹿児島県の大隅半島の南およそ45㎞に位置する碧い海に囲まれた美しい島、種子島。種子島は「地球のチカラ」を様々な面で感じることができる島なのです。ロケット打ち上げを可能にする種子島の地理的特徴とは?種子島と屋久島、近くてもこんなに違う誕生の秘密とは?鉄砲伝来の立役者は黒潮だった?火山のない種子島で鉄がとれた理由とは?種子島が生み出したのは鉄砲だけではない!ロケット打ち上げにつながる技術は戦国時代に生まれていた?種子島の人々の生活、文化に大きな影響を及ぼしてきた地球のチカラの秘密を探って行きましょう!

種子島の位置

 種子島宇宙センターの広さはおよそ東京ドーム200個分。その広大な敷地はロケット打ち上げの時以外は一般にも開放され、前に広がる海ではサーフィンも楽しめるといった憩いの場になっています。世界でも珍しい開放的な宇宙センターなのです。
 ロケットの発射場が種子島につくられたのには、地球のチカラが関係しています。

Q1. 種子島がロケット発射の場所に選ばれた理由には、種子島の位置に関係するものがありますが、それは何でしょうか?
A1.赤道に近く、島の東側に海が開けているため。

種子島宇宙センターの吉信第1射点 画像引用元:ウィキペディア

 ロケットの打ち上げには地球の自転による「遠心力」が利用されます。遠心力は赤道に近いほど大きくなりますので、日本の中でより南に位置する種子島が選ばれました。また、もうひとつの理由として、地球は西から東に自転(回転)するため、地球の自転を利用するロケットは東の方向に打ち上げられます。安全を考慮して、東側に海が広がる種子島が選ばれたのです。
 同じくロケットを打ち上げるアメリカのケネディ宇宙センター、欧州宇宙機関(ESA)のギアナ宇宙センターも同じ理由で設立場所として選ばれています。

世界の宇宙センターの位置
※赤線が赤道、青丸が「ケネディ宇宙センター」、オレンジ丸が「ギアナ宇宙センター」です。

 このように、ロケット発射には地球のチカラが大きく関係しています。
 地球のチカラは種子島の成り立ちにも深く関わっています。

 種子島宇宙センターから車で5分ほどの場所に行くと、大きな崖が見えてきます。「大門の峯(おおかどのみね)」と呼ばれる高さ約80mの崖は、100万年以上かけてつくられた地層です。

Q2.「大門の峯」の岩石には地層のシマ模様が入っています。この岩石は何でしょうか?
A2.堆積岩(たいせきがん)

 堆積岩とは、海や湖の底にたまった土砂や火山灰などが固まってできた岩石のことです。種子島は海の底に積もった地層が隆起してできた島なのです。
 種子島の隣には屋久島があります。屋久島では標高が最高で1936mにも達するのに対し、種子島は最も高い所でも282mしかありません。種子島と屋久島の距離は、わずか20㎞しか離れていないのに、地形が大きく異なっています。ここにも、地球のチカラが大きく関係しています。

左から、口永良部島・屋久島・種子島

 種子島ができた経緯を確認してみましょう。
 フィリピン海プレートが大陸プレートの下に沈み込む中でプレートの間でマグマがたまります。たまったマグマの上にあるのが口永良部島(くちのえらぶじま)の火山です。そして屋久島は地下のマグマが冷えて固まり、巨大な花こう岩になって地上にあらわれたものです。屋久島が生まれるまでの経緯は、前回のメルマガNo.1322 『ブラタモリクイズ!屋久島~「屋久杉」を知れば「屋久島」が分かる!?~編』で詳しくご説明していますので、ぜひご覧ください。
 マグマだまりが固まりながら上に隆起してできたのが屋久島であるのに対して、種子島はマグマができるには浅い位置にあります。海底の堆積岩がプレートに押し上げられて生まれたのが種子島です。
 口永良部島と屋久島との距離が約12㎞、屋久島と種子島の距離が約20㎞。プレートの動きという地球のチカラは、わずかな距離で大きな違いを生み出したのです。

 種子島で感じられる地球のチカラはまだまだあります。種子島の東側、太平洋に面した海岸へと移動します。

Q3.太平洋に面した海岸から沖を見ると、白波が砕けているのが見えます。この場所の海底には何があるのでしょうか?
A3.サンゴ礁

 「サンゴ礁」とはサンゴが作った地形です。サンゴ礁のある場所は水深が浅くなるので、そこで白波が立ちます。この地域の砂浜にはサンゴが打ちあがっています。
 このように、種子島の沖にサンゴ礁があることにも海に関する地球のチカラが関係しています。

Q4.種子島でサンゴ礁ができるのは、この海域にある温かい海流が流れているためです。この海流とは何でしょうか?
A4.黒潮(くろしお)
 
 黒潮は日本列島の近海を南西から北東へと流れる海流です。「日本海流」とも呼ばれます。種子島はサンゴ礁が作られるエリアの中では北に位置します。その位置にまでサンゴ礁をもたらしたのが黒潮なのです。黒潮は太平洋最大の海流で、その幅は100㎞近くになります。

日本列島近海の海流 画像引用元:ウィキペディア
※黒潮は1です。

 この黒潮が種子島の生活に大きな影響を与えてきました。
 海岸の近くに広田遺跡(ひろたいせき)という古墳時代につくられた共同墓地の遺跡があります。ここには、老若男女問わず様々な人々が埋葬されています。共同墓地がつくられたのは、およそ1700年前の4世紀、日本の歴史では「古墳時代」と呼ばれる時期でした。
 同じ時代に種子島には古墳がなく、権力者のお墓は存在していません。家族や友人、仲間たちを等しく大切に葬っていた遺跡なのです。こうした共同体を大事にする文化は、南の島、奄美や琉球の特徴です。
 埋葬された人々が身につけていた装飾品の材料である貝殻は、種子島よりも南でとれる貝が多く使われています。
 このことから、古代の種子島の人々が地球のチカラである黒潮の流れを利用して、活発に南の島々との交流を重ねていたことがわかります。

 その交流相手が、8世紀になると大きく変化します。

Q5.8世紀に種子島の人々が交流した相手は、黒潮が流れる先にある地域の人々でした。そのことが「日本書紀」に記されています。その地域とはどこでしょうか?
A5.奈良

平城京の太極殿(再建) 画像引用元:ウィキペディア

 「日本書紀」は奈良時代の720年に完成した、日本最古の公式の歴史書です。種子島の人々が交流した相手とは、黒潮が流れて行く先にある「奈良」に都を置く古代日本の人々でした。「日本書紀」には種子島の米作りに関して、「稲、常に豊かなり。ひとたび植えて、ふたたび収む。」との記述があります。つまり、米が年に2度収穫できる豊な土地として紹介されているのです。種子島では現在も温暖な気候を利用して、1年に2度の収穫が行われています。
 当時、米作りは「経済力・国力」を表すものでした。経済力・国力があると見なされた種子島は、その後、日本の政権下に置かれるという運命をたどります。種子島は国家の枠組みに組み込まれていったのでした。

 ここからは、種子島で起きた歴史上の大事件について探って行きます。種子島の最南端にある「門倉岬(かどくらみさき)」へと移動します。

Q6.1573年に門倉岬の東に広がる「前之浜(まえのはま)」という海岸にポルトガル人を乗せた船が漂着しました。このポルトガル人によって日本に初めてもたらされたものとは何でしょうか?
A6.鉄砲

門倉岬の南端 画像引用元:ウィキペディア

 種子島・1573年・ポルトガル人となれば、「鉄砲伝来」です。ポルトガル人を乗せた船は、黒潮に流されて前之浜に漂着しました。種子島は海の難所で、8世紀以降、何隻もの難破した船が漂着していますが、その数は黒潮に最も近い最南端に位置する門倉岬が圧倒的に多いです。黒潮は蛇行して上下運動をするため、北上した時はかなり門倉岬に近づきます。

Q7.ポルトガル人を乗せた船が種子島に着いたのは漂着のためで、本来の目的ではありませんでした。それではその船の本来の目的とは何だったと推測されるでしょうか?
A7.中国との交易

 実は種子島に漂着した船は中国でチャーター(期間または時間を定めて、運転者付で乗り物を借りる有料契約)されたものでした。種子島に鉄砲が伝来した経緯については諸説ありますが、中国の南の近海で交易をしていた船が、嵐に遭って黒潮に引かれて漂着、その船にポルトガル人が鉄砲を持って乗っていたという説が最も有力とされています。

 火縄銃の銃声は古文書によると、「雷のごとく」とされ、当時の人々には強烈なインパクトを与えました。何百年後に同じ場所で轟音を響かせてロケットが飛ばされるとは、誰も思っていなかったでしょう。
 実は、火縄銃は実弾を撃つことも可能なので、現在は「銃刀法」で厳格に管理されていて、手に持つことも許されていません。

Q8.鉄砲は戦国時代に「種子島」という別名で呼ばれていました。その理由のひとつは鉄砲が種子島に伝来したことですが、もうひとつの理由とは何でしょうか?
A8.種子島で火縄銃が製造されていたため。

種子島火縄銃 画像引用元:ウィキペディア

 種子島には鉄砲が伝来しただけでなく、「火縄銃の作り方」まで習得され、製造されて全国に広まりました。そのため「種子島」と呼ばれていたのです。

 それでは、なぜ種子島で火縄銃の製造が可能だったのでしょうか。火縄銃を作る材料にも、地球のチカラが大きく関係しているのです。

Q9.火縄銃を製造するのに必要なのは鉄です。種子島でなぜ鉄が手に入ったのでしょうか?
A9.砂鉄がとれたため。

 種子島の島の北部にある海岸では「砂鉄」が今でも見られます。この砂鉄から火縄銃の材料となる鉄が入手できたのです。種子島では昔からあちこちの浜辺で砂鉄がとれていました。その中でも特に多くの砂鉄が取れる北部の海岸は「鉄浜(かねはま)海岸」と呼ばれています。
 
 それでは、砂鉄はどのような環境で生まれるものなのでしょうか?

Q10.砂鉄は「火山」由来の岩石が崩れてできるものですが、種子島には火山はありません。それにもかかわらず、種子島で豊富に砂鉄がとれたのはなぜでしょうか?
A10.別の場所の火山活動で生まれた砂鉄が黒潮の流れで種子島まで運ばれたため。

 火山がない種子島で砂鉄がとれるということは、砂鉄が他の場所からたどり着くしかありません。そこには、これまで見てきた地球のチカラが深く関与しているのです。
 種子島ができる前、島から遠く離れた場所で火山活動があり、そこで生まれた砂鉄が黒潮の流れによって運ばれて、海底に積もり積もって砂鉄の層を形成しました。その砂鉄が堆積した海底がプレートの動きで隆起して種子島になったのです。
 「砂鉄を生み出す火山」「その砂鉄を運ぶ黒潮」「そして海底の砂鉄の層を隆起させるプレートの動き」、この3つの地球のチカラが合わさって種子島の砂鉄が生まれました。

 砂鉄という材料が偶然あったからこそ火縄銃づくりができました。その偶然も黒潮のチカラがあったからこそ起きたのです。

 そして、当時の種子島には火縄銃を是が非でも使いたいという歴史の偶然がありました。

 島の西側、種子島の中心地へ移動すると、そこに火縄銃をどうしてもつくりたかった人物の像があります。
 その人物とは、種子島時堯(たねがしまときたか)です。種子島時堯は鎌倉時代から、種子島と屋久島を治めてきた種子島氏の14代目です。

種子島時堯公像 画像引用元:ウィキペディア
※左手に火縄銃を握っています。

 時堯が生きた時代はまさに戦乱の時代でした。それまでの種子島は大きな戦もなく平和な島だったのですが、戦国の時代になって、大きな戦いが行われました。
 その戦場となったのが、現在時堯の像が立っている場所です。そこは土地が高くなっており、かつて土塁があったこと、つまり城があったことがわかります。
 種子島で唯一の戦争は、敵の侵略を受ける戦いでした。攻めてきたのは、大隅半島の禰寝(ねじめ)氏。
この戦いに敗れた種子島氏は、それまで治めていた屋久島を禰寝氏に奪われてしまいます。この禰寝戦争が勃発したのが、なんと1543年。その半年後に鉄砲をのせた船が種子島に漂着したのです。
 屋久島に続き、種子島も奪われる危機にあったため、鉄砲伝来は戦う準備として持ってこいでした。時堯は鉄砲を2丁、現在の金額で1億円を支払って買い取り、それをもとに島の刀鍛冶たちに火縄銃をつくらせたのです。
 時堯は鉄砲伝来の翌年に、屋久島の奪還作戦を行い、見事に禰寝から屋久島を奪い返しました。そのときに火縄銃を使ったかどうかの明確な資料は残されていませんが、火縄銃の絶大な威力があったからこそ、屋久島奪還作戦が成功したと考えることができます。

 もしも当時の種子島が平和であったならば、鉄砲伝来の直前に種子島が敵の侵略を受けて危機的な状況になかったならば、鉄砲はつくられなかったかもしれません。
 地球のチカラと歴史の偶然が種子島を鉄砲の島にしたのでした。

 火縄銃のつくり方には大きな難問がありました。その難問を解決したことで、種子島がある重要なものの発祥の地となりました。

Q11.火縄銃の銃身の後ろにあり、当時の技術ではどうしてもつくれなかったものがあります。それは何でしょうか?
A11.ネジ

 火縄銃の中でどうしてもつくれなかったのは「ネジ」でした。火縄銃の銃身の後ろは、ネジが外れるような作りになっていました。銃の掃除を行うために外れるようにつくられていたのです。

火縄銃(江戸時代) 画像引用元:ウィキペディア

 突起のある雄ネジはどうにかつくれたのですが、雄ネジを差し込む受け口となる雌ネジのつくり方がわかりませんでした。
 ネジづくりの詳細は、後で島にやってきたポルトガル人の技術者に教えてもらって、その製法は火縄銃とともに全国に伝来して行きました。種子島はネジ発祥の地でもあるのです。 

種子島宇宙センターから打ち上げられるH-IIAロケット 画像引用元:ウィキペディア

 現在、種子島から打ち上げられるロケットには、大小合わせて数万個のネジが使われています。日本はモノづくりの国で、その原点のひとつは種子島にありました。その種子島に技術の粋を集めたロケットの発射場があるのは、単なる偶然ではないと言えます。
 戦国時代の鉄砲づくりを可能にしたネジの技術は、現代のロケットにも不可欠なものとなっています。
 種子島は日本の技術の歴史を感じられる島でもあるのです。

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