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ホームメールマガジン宝箱ブラタモリクイズ!No.1346 『ブラタモリクイズ!埼玉・行田~埼玉はじまりの地 行田ってどんな所?~編』

No.1346 『ブラタモリクイズ!埼玉・行田~埼玉はじまりの地 行田ってどんな所?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は7月15日に放送された埼玉・行田編です。

 関東平野の北西部、群馬県との県境にある埼玉県の行田市。世界最大の「田んぼアート」、おからを使って作る「ゼリーフライ」が人気を集める行田が、なぜ「埼玉はじまりの地」と言われるのでしょうか。東日本最大級の古墳群で出土した100年に1度の大発見とは?埼玉の県名の由来は川にあり?難攻不落の平城を攻めるための秀吉の作戦とは?足袋が全国に広まったのは行田が○○町だったから?知られざる魅力が満載の行田とはどんなところなのか、探って行きましょう!

行田市の位置

 行田市には前玉神社という神社があります。この「前玉」は「まえたま」ではなく、「さきたま」と読みます。この神社がある一帯は、行田市埼玉地区という地名で、この「埼玉」も「さいたま」ではなく「さきたま」と読みます。

前玉神社の参道・拝殿 画像引用元:ウィキペディア

 この行田市埼玉地区こそが、埼玉の県名の由来になった場所なのです。ちなみに前玉神社に奉納した人たちの住所は「埼玉(さいたま)県北埼玉(さいたま)郡埼玉(さいたま)村大字埼玉(さきたま)字下埼玉(さきたま)地区」と、埼玉が読み方を変えて5回も出てくるものでした。

 前玉神社から車で5分くらいの場所で、行田が埼玉という県名の発祥の地になった理由がわかります。

 平野のど真ん中に高まりが見られます。その高まりの正体は古墳。この古墳こそが埼玉はじまりの地に関わるものなのです。
 古墳の名前は「丸墓山(まるはかやま)古墳」という高さ17mの日本一高い円墳で、その頂上からは、いくつもの古墳が見えます。

丸墓山古墳から望む稲荷山古墳(左)・将軍山古墳(中央)・円墳群跡(右手前) 画像引用元:ウィキペディア

 全長100m級の巨大な古墳がこれほど近い距離で1か所に密集しているのは、全国的にも珍しいと言われます。地図を見ると10基もの古墳が現存しています。
 ここは「埼玉(さきたま)古墳群」と呼ばれ、5世紀後半から7世紀中頃にかけてつくられました。その規模は東日本最大級を誇ります。

Q1.埼玉古墳群の中のひとつ、稲荷山(いなりやま)古墳で、1968年にあるものが出土し、100年に1度の世紀の大発見とされました。そのあるものとは何でしょうか?
A1.鉄剣

 稲荷山古墳で出土したのは、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」という鉄剣で、表と裏に合わせて115文字が刻まれ、国宝に指定されています。

稲荷山古墳出土鉄剣(国宝)左が表面、右が裏面 画像引用元:ウィキペディア

 鉄剣には「杖刀人首(じょうとうじんのおびと)」という文字が刻まれています。これは、「王に仕える警備隊の隊長」がいたという証拠で、中央と密接な関係があったことが示されています。

 鉄剣に刻まれた文字からさらにすごいことがわかりました。
 「辛亥年(しんがいのとし)」という3文字が刻まれているのですが、辛亥年は、西暦471年であるという説が有力です。この時期に「何年につくられた」とはっきり書いてある資料は、日本だけでなく東アジア全体で見ても大変珍しいもので、年代を考える上での大きな指標になる大発見となりました。

 出土した当時、剣に文字があるとは考えられておらず、さびてきたので奈良県の保存処理をする所に持って行き、さびを落としたら文字が出てきたと言われています。持って行くときは竹を2つに割ったものに剣を入れていたのが、文字があることがわかってから、帰りにはちゃんと美術専用車で運ばれたという、「手のひら返し」とも言えるエピソードがあります。

 鉄剣が出土した稲荷山古墳だけでなく、次々と巨大な古墳が築かれた埼玉(さきたま)の地ですが、一体なぜこの場所が選ばれたのでしょうか?

 埼玉古墳群のある場所は平らな地で、南北2つの川にはさまれています。北の川は利根川で、南の川は荒川です。
 埼玉古墳群がつくられた頃、この2つの川の流れは現在とは全く違ったと考えられています。2つの川はそれぞれ枝分かれして、しかもくっついていました。

Q2.平らな地にあり、2つの川の支流が近い距離にあることで、この地にはどのような利点があったでしょうか?
A2.船による運搬がしやすかった。

紫丸が埼玉古墳群の位置、青矢印の先が利根川、赤矢印の先が荒川

 川の流れが急な場合、下りはよいのですが、上る時には急だと上りにくくなります。その点、この場所は平らで流れが急ではないので、河川の水運には非常に良いところでした。
 さらに支流が近い距離にあることで、近くの川からどちらかの本流に出られる点で、船による運搬がしやすかったのです。

 水上交通の要衝であり、かつてこの辺りの中心地として栄えた埼玉(さきたま)。その地名は奈良時代に埼玉(さきたま)郡として郡の呼び名になり、さらに明治時代には埼玉(さいたま)県として県の名前に採用されました。

 実は、行田にはもっとすごい古墳があります。日本の他の場所ではめったに見られない、不思議な古墳群が他にあるのです。
 利根川の近くまで移動します。

 田んぼのど真ん中、見渡す限り真っ平で古墳の高まりは全く見えません。堤防の向こうには利根川が流れています。
 そこは「酒巻(さかまき)古墳群」といって、この場所では古墳が地下に埋まっています。

酒巻古墳群の位置

Q3.酒巻古墳群はなぜ地下に埋まってしまったのでしょうか?
A3.利根川の土砂が流れてきたため。

 酒巻古墳群は6世紀初頭から7世紀前半頃に築かれたもので、この場所では、地下から23基もの古墳が発見されました。

 なぜ古墳を埋めるほどの流れが利根川からもたらされたのでしょうか?
 そこには、行田を含む「関東平野」の成り立ちが深く関係しています。酒巻古墳群の場所から周りを見渡すと、遠くには富士山、関東山地、赤城山、足尾山地が見えます。
 山に囲まれて、この場所だけ真っ平になっているのです。

関東平野周辺の地形 画像引用元:ウィキペディア

 関東平野の形は例えるならお盆や洗面器をしています。
 この地形を生み出したのは「関東造盆地運動」です。今からおよそ12万年前、関東平野一帯は海の底にありました。その後、隆起によって陸地となるのですが、周囲の方が隆起のスピードが速いため、周りが高く、中央がへこんだ洗面器状の地形となりました。これを「関東造盆地運動」と言います。
 低くなっている場所には周囲の山々から流れてきた川の土砂がたまりやすくなります。そのため利根川の近くにあった酒巻古墳群は埋まってしまったのです。

 行田の面白さは古墳だけではありません。
 戦国時代に名をはせた、難攻不落の名城が行田にあるのです。
 その城の名は「忍城(おしじょう)」。
 忍城がいかにして関東有数の名城と言われるようになったのか、その謎を解き明かすため、市内の中心部へと進みます。

忍城 画像引用元:ウィキペディア

 難攻不落と聞くと、急峻な山があるか、お堀が深くて広いというイメージがありますが、忍城の辺りはその真逆。典型的な平城で、難攻不落のイメージは感じられません。
 城のすぐ近くの神社に石垣があり、周囲に土塁があったことがわかります。その土塁が途中で切れています。そこはかつて堀があった場所です。
 現在は歩道と道路になっている部分には、堀があったのです。

Q4.平らな地にあり、急な山も深く広い堀もない忍城が難攻不落と言われたのはなぜでしょうか?ヒントは堀です。
A4.水を張り巡らせて守りを固めたため。

 絵図で見ると、当時の城の周りは堀だらけでした。周囲に流れる川を最大限に利用して、水を張り巡らせて守りを固めたのが忍城だったのです。
 しかもこの水には城の防御以外にも重要な役割がありました。
 お城の周りには田んぼがあり、田んぼも水を利用していたのです。水が豊富で広大な平地があり、日照条件もよいので、この辺りは田んぼをつくるには最適な場所でした。
 水を利用して「防御」と「生産」を一緒に行うことができたのです。

 戦国時代、忍城の名を世に知らしめた、ある出来事が起こります。
 それは当時、関東を支配していた北条氏と天下統一を目指す豊臣秀吉との戦い、「小田原合戦」です。
 北条方についていた忍城を攻めるため、秀吉の命令を受けた石田三成が2万の軍勢を引き連れてやってきました。

石田三成像(東京大学史料編纂所所蔵) 画像引用元:ウィキペディア

 秀吉は三成にどのような作戦を指示したのでしょうか?そして、なぜこの戦いで忍城は全国に名をはせることになったのでしょうか?
 それを解き明かす痕跡を訪ねて、忍城から南へ4㎞の場所へと向かいます。

 田園風景の中に高まりが見られます。この高まりこそが、その痕跡なのです。
 高まりはかつて堤防だったもので、石田三成から名前をとって「石田堤」と言われます。
 城を攻めるために、三成は4㎞離れたところで堤防をつくる土木工事を行いました。

石田堤(石田堤史跡公園内) 画像引用元:ウィキペディア

Q5.忍城を攻めるために秀吉が石田三成に指示した作戦の内容とは、どのようなものだったでしょうか?
A5.城を水没させること。

 秀吉の作戦は、「忍城を水没させてしまえ!」でした。城の周りに堤防を築いて、利根川・荒川の水を引き入れて、忍城を水没させる、という指示だったのです。
 堤防の高さは約2.3mの高さにも及び、その長さは全長14㎞と言われています。
 堤防がそこまで長くなったのは、一番標高の低いところを避けてつくったため、迂回するようなかたちになったためと考えられています。
 石田堤は、自然の地形を利用した堤だったのです。
 
 ただ、実際は想定していたほどの大きなダメージを忍城に与えることはできませんでした。
 残されている秀吉からの命令書を見ると、そこには「とにかく水攻めをせよ」との言葉が記されており、秀吉が水攻めに強くこだわっていたことがわかります。
 この小田原合戦は秀吉にとって天下統一の最終段階にあり、自分自身もほぼ天下人となっていたので、壮大な水攻めを仕掛けられるだけの財力があることを、世に誇示する目的があったと考えられています。
 水攻めは続けられましたが、結局失敗に終わりました。関東に数多くあった北条氏の支城(中心となる城を守るようにつくられた出城や砦などのこと)の中で、最後まで落城せずに残ったのが忍城でした。
 結局、北条氏の本拠地・小田原城が開城(降伏して敵に城を明け渡すこと)したので、忍城も開城することにはなりましたが、決して攻め落とされたわけではなかったのです。
 
 江戸時代のこの辺りは忍藩の管轄であり、行田という名前はありませんでした。なぜ忍市ではなく行田市となったのでしょうか?

 この場所が忍市ではなく行田市となった理由を探るため、行田の市街地へと進みます。

 市街地の住所に注目すると、その謎が見えてきます。
 忍という町名が続き、急に行田に代わります。町名の境は江戸時代の絵図を見るとわかります。
 忍が武士の町だったのに対し、行田は町人の町でした。普通であれば、武士の方が身分が高く、忍の方が行田よりも広いので忍市になるはずです。
 それでも忍市にならずに行田市になったのは、江戸時代に行田町で有名な大ヒット商品が生まれたことが深く関わっています。

Q6.天江戸時代に行田で生まれた大ヒット商品とは何でしょうか?ヒントは身につけるもの。そして行田で綿花の栽培が盛んだったことです。
A6.足袋

行田足袋 画像引用元:ウィキペディア

 行田の足袋は、戦後すぐの最盛期には日本全体の7割の生産量を誇り、今でも出荷額は日本一です(老舗の足袋屋がランニングシューズをつくるまでの激闘の様子を描いた人気ドラマ『陸王』の舞台も埼玉県行田市です)。
 足袋のもとになる綿花の栽培が盛んだったことから生まれた行田の足袋が、なぜ全国に広がったのでしょうか。
 その理由を探るため、町人町のメインストリートへと向かいます。

 メインストリートに高札場(こうさつば)の跡があります。高札場とは、幕府や領主による法令が掲げられた場所で、人目につきやすい所が選ばれます。つまり、このメインストリートは、江戸時代には重要な街道だったのです。

現存している府中宿 (甲州街道)の高札場(東京都府中市) 画像引用元:ウィキペディア

Q7.江戸時代の行田は、南に行くと江戸や八王子、東に行くと日光につながっていて、交通の要衝でもありました。このことから、行田は○○町であったことがわかります。○○に入る言葉は何でしょうか?
A7.宿場(町)
 
 行田は忍城の城下町であると同時に、宿場町でもあったのです。さらに行田のすぐ近くにも熊谷という中山道の大きな宿場町がありました。旅の道中で破れた足袋を買い替える必要もあり、行田の足袋は中山道の熊谷や、日光へ行く街道のある行田でよく売れていました。

 明治時代に入ると行田の足袋はさらに生産量を伸ばして行き、それにともない行田は宿場町から足袋の町へと変化して行きました。
 そんな町の変化がわかる場所へと向かいます。

 城下町は、間口の広さに応じて家の持ち主に税が課せられていたので、間口が狭く奥行きが長い短冊型の敷地が通り沿いに並ぶ特徴があります。
 明治時代に創業した元足袋屋がありますが、ここでも正面入口の隣に細長い扉があり、その奥に細長い通路があります。
 通路を通ると、店舗・住居・足袋工場・蔵と並ぶ構造になっています。ただ、足袋蔵と足袋工場ができたのは明治以降のことです。

Q8.足袋蔵と足袋工場ができる前、江戸時代にその敷地はどのように使われていたでしょうか?ヒントは宿場町を往来するのは人だけではないこと、そして敷地につながる細長い通路です。
A8.馬を休ませるための庭として使っていた。

 江戸時代、行田は宿場町だったため、馬を休ませるための庭がその敷地にありました。宿場町だった行田の人たちは馬の世話をすることが課せられていたのです。
 細長い通路は、馬を庭まで連れて行くために使われていたものでした。
 現代で言う駐車場のような役割であった庭が、明治以降に工場と蔵になりました。

昭和10年代(戦前)の行田足袋の工場 画像引用元:ウィキペディア

 最盛期には行田の足袋が日本全体の7割の生産量を誇ったことで、武士の町だった忍藩の管轄地が、忍市ではなく行田市になったのです。

 埼玉はじまりの地である、行田。古代から近代に至るまで幾重にも積み重ねてきた歴史の記憶が、この町には今も息づいています。

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