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ホームメールマガジン宝箱ブラタモリクイズ!No.1360 『ブラタモリクイズ!長岡~“花火の町”は不死鳥の町!?~編』

No.1360 『ブラタモリクイズ!長岡~“花火の町”は不死鳥の町!?~編』

 今や中学受験生必見のNHK『ブラタモリ』。近年の中学入試では社会入試問題の作成担当の先生が『ブラタモリ』を見てインスパイアされたと思われるような問題が出題されています。そこで鉄人会では『ブラタモリ』で紹介された知識の中で、中学受験生にぜひ覚えておいて欲しいものや、なぜだろう?と考えながら答えを見つけていくトレーニングを兼ねてクイズ形式で整理しました。今回は9月2日に放送された長岡編です。

 新潟県の長岡市。長岡といえば花火大会が有名で、秋田県大仙市の「大曲の花火」、茨城県土浦市の「土浦全国花火競技大会」とともに日本三大花火大会のひとつとされ、100年以上の伝統を誇る夏の風物詩となっています。花火大会には例年およそ100万人の観客が訪れると言われます。その長岡が「不死鳥の町」とはどういうことなのでしょうか。河川敷の石から見える信濃川がもたらした富とは?長岡の舟運を盛んにした信濃川分流の正体とは?戊辰戦争で焼け野原になった長岡を救った人物とは?長岡を石油の産地にした地形的特徴とは?花火に込められた平和への祈りと希望。度重なる困難に直面しても立ち向かってきた長岡の復興の歴史を探って行きましょう!

長岡市の位置

 JR長岡駅の前に、ある碑が建てられています。それは長岡城本丸の跡で、現在駅がある辺りが長岡城の本丸だったことを物語っています。
 城の本丸跡に駅が建つケースは、全国でほぼないことです。実は長岡の町は明治維新の頃に大部分が焼け野原になってしまい、長岡城も焼失してしまったのです。
 長岡の町はそこから立ち上がってきました。その「不撓不屈(ふとうふくつ」の精神は、不死鳥をイメージした市のマークにも表されています。

長岡市の市章 画像引用元:ウィキペディア

 いかに長岡が立ち上がってきたのか?長岡はいかにして不死鳥の町となっていったのかを探って行きます。

 まずは、長岡が“花火の町”となったきっかけを探りに、長岡駅からおよそ2キロ、信濃川の河川敷へと向かいます。

 花火大会では、日本一長い信濃川の河川敷の幅およそ2kmに渡って花火が打ち上げられます。
 そもそも長岡はなぜ花火の町になったのでしょうか?

花火大会で打ち上げられる花火 画像引用元:ウィキペディア

 花火を打ち上げるために必要なのは「経済的な豊かさ」です。長岡で花火大会が始まったのは明治時代の初め頃ですが、長岡は江戸時代から経済的に豊かでした。そのため、多額の費用がかかる花火大会を開催することができたのです。
 長岡の経済力を支えたものとは何だったのでしょうか?
 そのヒントは河川敷の石にあります。河川敷には、片岩(へんがん)、チャート、安山岩(あんざんがん)など、20種類くらいの石が見られます。

緑泥石片岩 画像引用元:ウィキペディア

 なぜこれほど多くの種類が見られるのでしょうか?
 長岡の辺りは信濃川の支流が多く流れる地域です。たくさんの種類の石を、地図上の運ばれてきた場所で分けると、石は多くの支流域に散らばっていて、川の流れで長岡に集まってきたことがわかります。

Q1.長岡に信濃川の支流が多く流れていることと、長岡が経済的にであったことにどのような関係があるのでしょうか?ヒントは舟(ふね)です。
A1.長岡が舟による物流が盛んな場所だったこと。

 石が多くの支流で見られたことから、長岡には多くの支流が集まっていたこと、そしてそこから長岡で舟による運搬が盛んだったことがわかります。

信濃川と支流 画像引用元:ウィキペディア

 様々な石が運ばれてきたように、色々な地域の多くの物資が川を通じて長岡に集まっていたのです。
 江戸時代には、信濃川下流の十日町(とおかまち)からは米や酒、味噌が、上流の湯沢からは木材が運ばれていました。長岡は舟運による物資の重要な集積地だったのです。

 ただ、長岡が舟運で栄えたのは、多くの支流とつながっていること以外にも理由がありました。
 その理由を探るために、町の中心部へと向かいます。

 町の中を通る道が曲がっていることから、現在は道となっているところが昔は「川」だったことがわかります。信濃川から分流した川が町中に流れていたのです。
 川の跡をたどって、さらに町の中に向かうと、別の川にぶつかります。柿川(かきがわ)という川が、今は道となった川と合流しています。江戸時代初期の絵図を見ると、信濃川の分流と柿川が合流して、街中を流れていたことが示されています。

Q2.合流した川が長岡の町人が住む町のすぐ横を流れていたことが、なぜ長岡で舟運を栄えさせることにつながったのでしょうか?
A2.川沿いが物資の荷下ろしに絶好の場所であったから。

 川が町のすぐ横を流れていたことで、物資の荷揚げを簡単にすることができるようになりました。また、川の流れのままに行けば、そのまま信濃川の本流につながるという地形的な特徴もあり、柿川沿いには、「河渡(こうど)」と呼ばれる、川につくられた舟の発着場・荷揚げ場が立ち並ぶようになりました。そしてその辺りには江戸時代に多くの蔵が立ち並んだのです。

 信濃川から分かれた川が町の中を流れ、再び信濃川に戻るという川港にぴったりの流れがあったことで、長岡の町は栄えたのです。

 そんな長岡の町に、江戸時代、当時を代表する有名人が訪れていました。

Q3.江戸時代に長岡に訪れた人物で、化政文化を代表する滑稽本(こっけいぼん)の作者とは誰のことでしょうか?
A3.十返舎一九(じっぺんしゃいっく)

十返舎一九 画像引用元:ウィキペディア

 滑稽本とは江戸時代後期の小説のひとつで、町人の日常生活で見られるおかしさを題材として書かれたものです。その代表作である『東海道中膝栗毛』の作者である十返舎一九が長岡を訪れていました。『東海道中膝栗毛』の中で、様々な人々が行き交うにぎやかな長岡の町の様子が描かれています。

 ところが、このにぎわいを一気に消し去ってしまう歴史上重要な事件が起こります。

Q4.1868年に旧幕府軍と明治新政府軍との間で起こった戦いの名前は何でしょうか?
A4.戊辰(ぼしん)戦争

戊辰戦争のひとつ「北越戦争」を描いた浮世絵 画像引用元:ウィキペディア

 戊辰戦争は1868年1月の「鳥羽・伏見の戦い」に始まり、1869年5月の「五稜郭の戦い」で旧幕府軍が降伏するかたちで終結しました。
 この戊辰戦争で旧幕府軍についた長岡藩は明治新政府軍に惨敗し、栄えていた長岡の町は一変、焼け野原となってしまいました。

 町の大半が焼けてしまいましたが、そこから長岡は復興して行ったのです。
 その復興のきっかけを探るため、柿川沿いに600mほどの場所へと向かいます。

 そこには江戸時代から戊辰戦争を乗り越えて今も残る、和菓子屋さんがあります。そのお店では、江戸時代から変わらずに作られている和三盆でつくったお菓子が売られています。

Q5.長岡の和菓子屋さんで使われている和三盆は、江戸時代には徳島県から届けられました。和三盆を運んだのは「○前船」でした。○に入る漢字1文字とは何でしょうか?
A5.

明治末から大正期に撮影した北前船 画像引用元:ウィキペディア

 「北前船(きたまえぶね)」とは、江戸時代から明治時代にかけて、大阪から下関を経て北海道へと至る「西廻り航路」を運航した船です。和三盆は徳島から北前船で新潟へ来て、新潟から信濃川を経て柿川沿いを通り、お店へとたどりついたのです。

 この和菓子屋さんに長岡復興のきっかけがわかる資料が残されています。

 戊辰戦争敗戦の約10年後に、ある人物が長岡に訪れます。その人物とは明治天皇でした。和菓子屋さんに残された『明治天皇越後御巡幸記録』という資料に、明治天皇が長岡を訪れたことが記されています。

Q6.明治天皇の長岡訪問に同行した人物の一人は、王政復古を実現させ、かつて500円札の肖像にもなりました。この人物とは誰でしょうか?
A6.岩倉具視(いわくらともみ)

岩倉具視 画像引用元:ウィキペディア

 明治11年、明治天皇は北陸地方を巡幸(じゅんこう:天皇が各地を見て回ること)しましたが、その目的地のひとつが長岡でした。この北陸巡幸に、岩倉具視や大隈重信が同行していたことが記録されています。
 戊辰戦争で戦った相手方、明治新政府を代表する人々の訪問が、長岡復興のきっかけのひとつとなりました。
 当時の長岡の有力者たちは、町をあげて巡幸を迎える決断をしました。天皇の巡幸に向けて、町や道路を整備することで町の復興が一気に加速すると考えたのです。
 そして明治天皇巡幸の翌年、明治12年に界隈の神社で花火大会が行われ、350本の花火が打ち上げられたという記録が残されています。
 これが現在の花火大会の源流となりました。

 明治天皇の巡幸で復興した長岡でしたが、そのまま順調には行きませんでした。
 明治中期には柿川の舟運にとって厳しい状況が生まれます。

Q7.明治時代にあるものが整備されたことにより、柿川の舟運は廃れてしまいました。そのあるものとは何でしょうか?
A7.鉄道

 明治時代になって鉄道が整備されると、物流の主力が舟から鉄道へと変わって行きました。長岡経済の原動力であった舟運は衰退していってしまったのです。
 
 舟運と入れ替わるように、長岡が再び立ち上がる原動力になるものが登場します。
 その原動力を探るために、長岡駅から東へ約6km、東山と呼ばれる丘陵(きゅうりょう:山地よりも標高が低く、起伏も少ないなだらかな地形)へと向かいます。

 その原動力は東山の地下にあります。オイルが浮かび、油っぽいにおいのする地下水がある場所。そこは地下水から石油を分離する施設です。長岡に富をもたらした原動力とは「石油」だったのです。
 長岡の丘陵で石油がとれることがわかると、大きなビジネスチャンスを逃すまいと、長岡の実業家たちが石油の採掘を大々的に行い、これが一大産業となりました。わずか数年で約200もの石油会社ができたと言われています。

 オイルマネーによって潤った長岡は、経済的にも上向きになって行きました。
 石油で長岡が潤ったことは、当時の花火大会の資料からもわかります。そこにスポンサーの名前が記されているのですが、製油所や石油会社の名前がズラリ。石油関連の会社が花火大会のスポンサーとしても登場してくるようになっていったのでした。
 
 長岡に舟運の恵みをもたらしたのは「信濃川」、そしてその後は「石油」が復興の原動力になりました。 信濃川も石油も長岡の経済にとってとても重要なものですが、実はこの2つには深い関係があります。

 そもそも、なぜ信濃川は70キロ先の新潟まで流れているのでしょうか?それは川の両側が丘陵で高くなっているという特徴的な地形のためです。

Q8.信濃川の両側の丘陵は何の力によって生まれたのでしょうか?
A8.プレート

プレートの力で波打つ地形 画像引用元:ウィキペディア

 この辺りの丘陵はプレートの力で、地形が波立つように隆起してできたものです。信濃川はその丘陵の間を流れています。
 石油が出るかどうかは地表ではなく、地下の地層がポイントになります。ここで、石油が長岡の丘陵辺りに集まった経緯を探ってみましょう。
 1500万年前くらい、新潟は深い海の底にありました。当時の日本海にはプランクトンがたくさん生まれました。
 プレートの力によって、地下の地形も同じように波打ちます。砂岩でできた地層の間に、水を通しにくい粘土のような地層があるとします。その層やはりも折れ曲がっています。
 地下にたまったプランクトンの死骸は、バクテリアと地下熱の働きによって、石油に変化します。地下深いところで石油ができて、水よりも軽い石油は地下から上昇して行きます。
 ところがその上に、水を通しにくい地層があるため、浮き上がってきた石油は浮力として蓄えたパワーで横に移動し、自然に石油が現在の長岡の丘陵辺りに集まって行ったのです。

丘陵の地下に石油が集まるメカニズム

 長岡に大きな産業をもたらした石油、そして舟運での繁栄をもたらした信濃川。どちらも「プレートの力」が生みだした恵みだったのです。

 石油は大正時代に入るとほとんど枯渇してしまいましたが、石油の関連産業として発達した鉄工業や機械産業がその後の長岡の経済を支えました。

 ただ、この後も長岡の町を困難が襲います。
 何が起こったのかを探りに、再び町の中心部へと向かいます。

 長岡市内にある平潟(ひらがた)神社。そこに明治時代に建てられた碑がありますが、その一部に黒ずんだ跡があります。
 それは1945年8月1日に受けた空襲の跡です。この空襲では約1500人が亡くなりました。平潟神社の境内でも多くの人々が犠牲になってしまいました。

昭和初期の平潟神社境内 画像引用元:ウィキペディア

 戦争で受けた被害から復興を遂げた長岡を、再び困難が襲います。
 この平潟神社にはもう一つ、長岡の人たちが忘れることのできない出来事の痕跡があります。神社の鳥居の折れた跡が残されているのです。

Q9.2004年に長岡を襲った出来事とは何でしょうか?
A9.新潟県中越地震

新潟県中越地震によって倒壊した道路 画像引用元:ウィキペディア

 2004年10月23日に発生した「新潟県中越地震」。マグニチュード6.8の大地震は長岡の町にも大きな被害をもたらしました。平潟神社の鳥居も、この大地震によって折れてしまったのです。

 戦争と地震という大きな試練は、その後の花火大会に新たな意味を加えました。
 戦地から帰還した長岡の花火師が戦友の鎮魂のために作った、白一色の花火があります。この花火は平和を祈る象徴として、空襲が始まった8月1日の夜10時半に毎年打ち上げられています。
 コロナ禍で花火大会が中止になった年でも、この白色の花火だけは欠かさず打ち上げられていました。

 また、不死鳥を意味する「フェニックス」という花火は、中越地震からの復興を願い、地震の翌年から打ち上げられています。

新潟県中越地震からの復興を願う花火「フェニックス」

 最初に「フェニックス」が打ち上げられた時には、多くの観客たちが涙を流していたと言われています。

 戦争や災害といった困難に何度も直面しても、その度に乗り越えてきた長岡の町。
 打ち上げられる花火は、長岡の人々の希望や祈りそのものと言えるのです。

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